石原町八坂神社。津島祇園神社を勧請して創建
石原町八坂神社の概要
石原町八坂神社は、川越市石原町にある神社です。石原町八坂神社の創建年代等は不詳ながら、津島祇園神社を勧請して観音寺境内に創建、寛保2年(1742)には赤間川(現・新河岸川)の氾濫に際して疫病が大流行したものの、平癒する者が多かったことから、神仏のご加護と信じ、大沢太郎左衛門は絵巻物を奉納したといいます。安永10年(1781)愛宕八坂神社に合祀されたものの、その後も当地で祀られています。当社所蔵の牛頭天王縁起絵巻一幅は、大沢太郎左衛門の発願により太陽寺盛胤が著した絵巻で、延享3年(1746)に奉納され、川越市文化財に指定されています。
社号 | 石原町八坂神社 |
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祭神 | 素戔嗚尊、奇稲田姫命、八岐大蛇 |
境内社 | - |
相殿 | - |
祭日 | - |
住所 | 川越市石原町1-20 |
備考 | - |
石原町八坂神社の由緒
石原町八坂神社の創建年代等は不詳ながら、津島祇園神社を勧請して観音寺境内に創建、寛保2年(1742)には赤間川(現・新河岸川)の氾濫に際して疫病が大流行したものの、平癒する者が多かったことから、神仏のご加護と信じ、大沢太郎左衛門は絵巻物を奉納したといいます。安永10年(1781)愛宕八坂神社に合祀されたものの、その後も当地で祀られています。
「埼玉の神社」による石原町八坂神社の由緒
愛宕八坂神社<川越市石原町二-六四-六(小久保字石原町)>
当社はその中の一つ天台宗高沢山妙智院観音寺内に鎮座し石原町大権現と称していたが、安永九年の大火を機に町内中央部南側中程にある星野家に移して町の火防の神として祀り、翌一〇年袋町(現一丁目)の牛頭天王を当社の合殿とし、社号を石原町大権現牛頭天王合殿とした。その後、当社は渡辺家を経て柊稲荷の境内へと移った。往時の祭りは、本殿を本通りに引き出し、お仮屋を設けて祭りを行い、町内中央の田んぼに舞台を掛け、老袋の太夫が石原へ婿に来ていたのを幸いに老袋の万作芝居が演じられたという。
(中略)
なお、八坂神社は現在も旧地に残り近隣者によって祀られており、近年、同神社からは延享三年、大沢太郎左衛門の奉納による牛頭天王縁起絵巻一巻が発見され、市の有形文化財に指定されている。(「埼玉の神社」より)
石原町八坂神社所蔵の文化財
- 牛頭天王縁起絵巻一幅(川越市指定文化財)
牛頭天王縁起絵巻一幅
牛頭天王は、元々インドの祇園精舎の守護神で、古代に日本に請来すると、疫病から人々を守る神として平安京の感神院祇園社(現・京都市八坂神社)にまつられるようになりました。中世には、日本神話の素戔嗚尊と同体とみなされるようになります。
「牛頭天王縁起絵巻」は、大沢太郎左衛門の発願により太陽寺盛胤が著し、延享三年(一七四六)に奉納された縁起絵巻物で、長らく社殿の奥深くに秘蔵されていました。
作者の太陽寺盛胤は、川越藩主秋元家の家臣で、宝暦三年(一七五三)に川越の地誌である「多濃武の雁」を著述したことで知られます。
絵巻物の詞書によれば、当社は尾州津島(現・愛知県津島市)の祇園社を勧請し、素戔嗚尊・(奇)稲田姫命・八岐大蛇の三座をまつったことに始まるとのことです。寛保二年(一七四二)、赤間川(現・新河岸川)が氾濫し、多数の人馬が溺れ、その翌年には疫病が大流行しました。ところが疫病にかかりながら平癒する者がいたことから、大沢太郎左衛門は、それを神仏のご加護と信じ、この絵巻物を奉納したと記されています。
絵巻物には、詞書に続いて洪水の有様、美しい社殿の落成、多数の神官による祭礼、巫女の舞などが素朴な筆致ながら豊かな色使いで描かれています。
これらのことから、本絵巻物は、江戸時代中ごろの信仰や風俗を知る上で貴重な歴史資料と言えます。(川越市教育委員会掲示より)
石原町八坂神社の周辺図