鴨田八幡神社。川越城鎮護の社として太田道灌が創建
鴨田八幡神社の概要
鴨田八幡神社は、川越市鴨田にある八幡神社です。鴨田八幡神社は、太田道灌が川越城築城に際し長禄2年(1458)川越城鎮護の社として創建したと伝えられます。川越藩松平信綱の代に笹原の地から当地へ遷座、鴨田の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格、明治41年山王下町の日枝神社を、大正4年に沼田の天神社、道下の鴨田中臣神社・道下稲荷神社を本殿に合祀しています。当社本殿は18世紀後半の造営と推定され、川越市有形文化財に指定されています。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 誉田別尊 |
相殿 | - |
境内社 | 易産社、三峰社、稲荷社、弁財天、浅間 |
祭日 | 春祈祷3月28日、秋祭り10月15日 |
住所 | 川越市鴨田1072 |
備考 | - |
鴨田八幡神社の由緒
鴨田八幡神社は、太田道灌が川越城築城に際し長禄2年(1458)川越城鎮護の社として創建したと伝えられます。川越藩松平信綱の代に笹原の地から当地へ遷座、鴨田の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格、明治41年山王下町の日枝神社を、大正4年に沼田の天神社、道下の鴨田中臣神社・道下稲荷神社を本殿に合祀しています。
新編武蔵風土記稿による鴨田八幡神社の由緒
(鴨田村)
八幡社
村内の鎮守なり、一乗院持、神體は弓箭をたづさへ乗馬の像なり、相傳ふ當社は太田備中守持資河越城に有し時、城中鬼門鎮護のため爰に勧請せりと、其時のものとて棟札あり、其文に長禄二年願主太田道灌導師、別當一乗院六世定海とのせたり、此棟札は墨色もあたらしく見えたれば、全く後人の附會せしものと見ゆ、又慶長十四年と記せし棟札あれど、只年號のみ幽かに見え、其餘の文字讀べからざれば、勧請の年代ただしきことを得ず、本社・幣殿・拝殿・神楽殿等備はれり、
末社。易産社、辨天社、三峯社、稲荷社 (新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による鴨田八幡神社の由緒
八幡神社<川越市鴨田一〇七二(鴨田字下居田町)>
当地は伊佐沼大用水路(旧入間川)の南岸に開けた地域にある。当社は鴨田地区の南端に鎮座し、創立は社記によると長禄二戊寅年太田道灌川越城構築の折、城の巽(東南)に当たるこの地を卜して、城鎮護の社として勧請したという。
『風土記稿』には、「八幡社 村の鎮守なり、一乗院持、神体は弓箭をたづさへ乗馬の像なり、相伝ふ当社は昔太田備中守持資河越城に有し時、城中鬼門鎮護のため爰に勧請せりと、其時のものとて棟札あり、其文に長禄二年願主太田道灌導師、別当一乗院六世定海とのせたり、此棟札は殊に墨色もあたらしく見えたれば、全く後人の附会せしものと見ゆ、又慶長十四年と記せし棟札あれど、只年号のみ幽かに見え、其余の文字読べからざれば、勧請の年代ただしきことを得ず」と見える。
口碑によると、当神社は松平信綱の代に代官領(代官袋)境の笹原の地にあったものを、開発時に当所へ移したという。氏子内では山田姓と佐藤姓が古く、共に松山城の落人で新田開発に入ったという。
明治五年村社となり、同四一年に山王下町の日枝神社、大正四年に同字沼田の天神社、同道下の中臣神社・稲荷神社を本殿に合祀した。
本殿は安永九年の再建であり、一坪ほどの一間社流造りで、周囲を飾る彫刻は贅を尽くしている。(「埼玉の神社」より)
鴨田八幡神社の所蔵文化財
- 鴨田八幡神社本殿(川越市指定有形文化財)
鴨田八幡神社本殿
鴨田八幡神社は、『新編武蔵風土記稿』によると長禄2年(1458)太田道灌が河越城の鬼門鎮護のために勧請したのが始まりとされる。鴨田村の鎮守として尊敬をあつめ、明治維新までは一乗院が別当をつとめた。
拝殿の奥にある本殿は、建築様式は大型の一間社流造で、屋根はこけら葺に千鳥破風、軒唐破風を付け、全体に見事な江戸彫りがほどこされている。市内には江戸末期に流行した江戸彫りを用いた本殿がいくつか現存しているが、故事逸話などを題材にとり、人物を中心に物語性がある彫刻が多い。当本殿の彫刻は主に動物・植物・波紋などで物語性はなく、他より早い18世紀後期の造営と考えられる。(川越市教育委員会掲示より)
鴨田八幡神社の周辺図