一乗院。喜多院を再興した尊海僧正が開山、関東百八地蔵霊場
一乗院の概要
天台宗寺院の一乗院は、星光山新善光寺と号します。一乗院は、仙波中院(無量寿寺仏地院)・喜多院を再興した尊海僧正(正慶元年1332年寂)が永仁4年(1296)に開山したといいます。尊海僧正は都幾川慈光寺住持を経て比叡山に入山、伏見天皇の命により仙波中院(無量寿寺仏地院)・喜多院を再興、川田谷泉福寺住持を経て当寺を開山した名僧です。関東百八地蔵霊場2番です。
山号 | 星光山 |
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院号 | 一乗院 |
寺号 | 新善光寺 |
住所 | 川越市鴨田716 |
宗派 | 天台宗 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
一乗院の縁起
一乗院は、仙波中院(無量寿寺仏地院)・喜多院を再興した尊海僧正(正慶元年1332年寂)が永仁4年(1296)に開山したといいます。尊海僧正は都幾川慈光寺住持を経て比叡山に入山、伏見天皇の命により仙波中院(無量寿寺仏地院)・喜多院を再興、川田谷泉福寺住持を経て当寺を開山した名僧です。
新編武蔵風土記稿による一乗院の縁起
(鴨田村)
一乗院
天台宗、仙波中院末星光山と號す、本尊彌陀は日本四十八體の一軀にして、弘法大師の作、一尺一寸の坐像を安じ、信濃國善光寺を模して新善光寺と云、當寺の開闢を尋るに、伏見院御宇永仁四年の草創なり、開山尊海正慶元年十一月廿日、當寺にて寂せし由傳ふ、此尊海は高徳の聞え有て、仙波喜多院を中興せし僧なり、そこにては建武元年十一月廿日の寂なりと云へば、年代すこしくたがへり、それらのことは喜多院の條に出たればこゝに略す、
樓門。樓上に寶永二年の鑄鐘をかく、銘文事實にあづからざればこゝに略す、
觀音堂。正觀音立像長二尺なるを安ず、行基の作、
稲荷社
山王社
辨天社。元禄年中建立せり、縁起あれど事實に取べきことなければ漏せり、
開山尊海墓。石のさまあたらしければ、後世立しものなるべし、傍に貞治三年及び天文三年の古碑あり、(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による一乗院の縁起
一乗院のおこり
今からおよそ七〇〇年ほど前の鎌倉時代には日本の国に多くの偉いお坊さんが現れました。
その中のひとりに尊海という修行をつまれ、学問にも優れたお坊さんがおりました。その方はその時代は日蓮宗という宗を開かれた日蓮上人の先生にもなったほどです。
尊海は、のちに武蔵国に来られ、今の川越仙波中院と川田谷泉福寺の住職をされ、そして一乗院をつくったのです。これは伏見天皇(永仁四年、一二九四年)の時で、この三つの寺が、それからというもの関東の天台宗の坊さんの学問、修行の中心となり、沢山の坊さんを育てました。(境内掲示より)
境内厄除延命地蔵尊について
百八地蔵尊霊場第二番厄除延命地蔵尊
江戸時代のこと、上尾の方から川越のあるお寺へ地蔵を納めに行く途中、今の芳野地区まで来たところ急に大地震が起こり、進むことが出来ません。
やっと一乗院へ運び入れました。まもなく地震がおさまりましたが、川越のあちこちで大きな被害があったわりに、芳野地区では少なくてすみました。
それから、そのままこの地蔵様は、一乗院に安置され、地震から守る地蔵様といわれています。(境内掲示より)
一乗院の周辺図