猫の足あとによる川越市・埼玉県・首都圏の寺院、神社など寺社案内

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三芳野天神社。川越市的場の神社

三芳野天神社の概要

三芳野天神社は、川越市的場にある神社で、法城寺境内に祀られています。三芳野天神社は、伊勢物語に出てくる入間の郡「三芳野の里」の円墳三芳野塚の前に建てられた社だといいます。太田道灌が川越城を築城する際に、三芳野神社地へ遷座したものの、元和6年(1620)法城寺境内へ移したといいます。祀っている菅原道真像は、「渡唐天神腹ごもり」と呼ばれ、像内に白檀香木で作った立像が納められ、永正元年(一五〇四)十月鎌倉管領上杉顕定の川越合戦の際に不明になったものの六十年余りを経て発見されたものだといいます

三芳野天神社
三芳野天神社の概要
社号 三芳野天神社
祭神 菅原道真公
相殿 -
境内社 -
祭日 1月25日
住所 川越市的場1902
備考 的場山法城寺境内



三芳野天神社の由緒

三芳野天神社は、伊勢物語に出てくる入間の郡「三芳野の里」の円墳三芳野塚の前に建てられた社だといいます。太田道灌が川越城を築城する際に、三芳野神社地へ遷座したものの、元和6年(1620)法城寺境内へ移したといいます。祀っている菅原道真像は、「渡唐天神腹ごもり」と呼ばれ、像内に白檀香木で作った立像が納められ、永正元年(一五〇四)十月鎌倉管領上杉顕定の川越合戦の際に不明になったものの六十年余りを経て発見されたものだといいます。

新編武蔵風土記稿による三芳野天神社の由緒

(的場村法城寺項内)
天神社。境内にて謂ゆる三芳野天神是なり、此神體を中頃今の川越城中へ移したりしに、神慮舊地を慕ひ給ふにより、元和六年再び當寺の境内に移すと云、神體厨子入にて、印子の立像長一寸八分、これを渡唐天神の腹籠とす、渡唐天神は白檀香木もて作れる立像にて、長八寸なり、傳云ふ永正元年十月、鎌倉管領上杉顯定川越合戦のとき、兵火のために所在を知らず成ぬるに、六十餘年を経て、或夜住僧某の夢枕に立給ひ、所在の告ありしゆへ、彼塚へ往て見に、夢想の如く梅樹の下より、恭しくも出現し給ふとなり、 (新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による三芳野天神社の由緒

神社本庁所管ではないため掲載なし(「埼玉の神社」より)

的場山法城寺掲示による三芳野天神社の由緒

三芳野天神社(天満宮)縁起
この神社の創立は平安末期頃で、伊勢物語に出てくる入間の郡「三芳野の里」の円墳三芳野塚の前に建てられたものである。菅原道真公が祀られており、別当は北條寺がつとめるようになった。
中世になりこのご神体を今の河越城中に移したけれども、神慮が旧地を慕われたため、元和六年(一六二〇)に再びこの寺の境内に移した。ご神体は厨子に入った印子の立像で長さが一寸八分あり、俗に「渡唐天神腹ごもり」と呼んでいる。そして渡唐天神は白檀香木で作った立像で、長さは八寸ある。「渡唐天神腹ごもり」というのは、この木造の腹部をくり抜いて青銅のご神体を内蔵するからである。
云い伝えによると永正元年(一五〇四)十月鎌倉管領上杉顕定の川越合戦のとき、兵火のため所在が不明になったことがある。ところが六十余年後を経たある夜、住僧の夢枕に立たれて所在を告げられたので、その塚に行ってみたところ、はたして夢想のように梅の木の下からうやうやしくも出現されたという。
残念ながら容赦ない都市化の波に踏みしだかれ、三芳野塚(現東急団地内第五公園附近)は姿を消してしまったが、遠い昔よりこの地において学問の神様として多くの人々に崇敬をうけてきた。(的場山法城寺掲示より)


三芳野天神社の周辺図


参考資料