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三芳野神社。川越市郭町の神社、旧県社

三芳野神社の概要

三芳野神社は、川越市郭町にある三芳野神社です。三芳野神社は、六つ塚という塚上に延徳元年(1489)鎮座、小手差稲荷、六塚稲荷と称していたといいます。明治5年村社に列格、明治40年に大字野田の日枝神社、翌年に大字野田新田の八幡神社を合祀の上当地へ移転、三芳野神社と改称したといいます。

三芳野神社
三芳野神社の概要
社号 三芳野神社
祭神 素戔鳴尊・奇稲田姫命
相殿 (配祀)菅原道真公、(合祀)誉田別命
境内社 大国主神社、蛭子神社、稲荷神社
祭日 -
住所 川越市郭町2-25-11
備考 旧県社



三芳野神社の由緒

三芳野神社は、大同年間に大宮氷川神社を勧請して創建、その後北野天神社を勧請したといいます。太田道真・道灌父子が河越城築城の際に、当社と仙波日枝神社を城内鎮守とし、同様の鬼門除け鎮守を江戸城にも適用(平河天満宮山王日枝神社)したといいます。
徳川家康より社領20石の御朱印状を拝領、江戸幕府の厚い庇護を受けていたといいます。明治維新後は、城内に鎮座していた八幡宮を合祀して、三芳野神社と改称、明治六年には県社となったといいます。

新編武蔵風土記稿による三芳野神社の由緒

(河越城并城下町)天神社
本丸の東の方巴堀の外にあり、三芳野天神と號す、社領二十石の御朱印を賜はる、縁起を閲に足立郡大宮町の氷川大明神は大社にて、國中の鎮守なれば爰に勧請すと、又伝中古神託ありて法華の法味に満足するゆへ、浄土に往来して極楽自在なりとありけるゆへに、本地堂に観音を本尊として地蔵を脇立とす、後に示現の告ありて十一面観音を本體とす、不動毘沙門を脇立とす、又深秘の神體なりとて古き銅の扇あり、其圖は左に出せり、又いつの頃か北野天満天神を勧請して、此社内に祝ひこめり、これは北野の本地と同體なれば、かくの如く相殿として祀りしならん、
大猷院殿の御時しばしば此社へわたらせ賜ひ、其次をもて御放鷹又は騎射など御覧ありしとなり、又その頃の事にや、江戸西丸御普請ありしとき、六月の初より八月の末まで御座を當城へうつされけり、其頃當社は初雁を閲の名所にて、年ごとに雁の来ることその時をがへずと聞し召され、人を三所にわかちをかれて、終夜きかしめられけるに、例のごとく初雁北の方より飛来り、三聲おとづれて南の方へゆきしと言上しければ、奇特の事なりと仰せられけるとぞ、
抑爰を雁の閲の名所と云事は、『伊勢物語』業平中将東國へ下りけるとき武蔵國入間郡三芳野の里に来りて、ある女にあはんと云ける、女の母なん藤原なりけるによりて、中将にゆるさんとて歌を讀てやる、三芳野のたのむの雁もひたふるに、君が方にぞよると鳴なる、中将のかへしに、わが方によると鳴なる三芳野の、たのむの雁をいつかわすれん、といへるによりて、當所を雁の名所といへるなり。
當社の宮居はもとわづかなるつくりなりしが、大猷院殿御遊歴ののち、酒井讃岐守忠勝に仰せて、造營の事をはからせ給ふ、よりて寛永元年二月の中頃より事始ありて、同き十一月下旬に至て功を竣れり、ここに於て同二年二月廿四日遷宮の式行はる、導師は大僧正天海なりと云。
以上の説は民部卿法印道春が撰ぶ所の縁起にみえたり、別當はすなはち高松院なり。 (新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による三芳野神社の由緒

三芳野神社<川越市郭町二-二五-一一(川越字郭町)>
川越は武蔵野台地の東北端に位置し、荒川低地に突き出した高台のため、古くから要害の地とされ城郭が築かれてきた。特に江戸幕府は江戸城に最も近い出城として重要視し、松平伊豆守信綱は寛永一五年から慶安年間にかけて城郭の拡張整備並びに城下町の町割りを進めた。
城は古くから初雁城ともよばれ、当社は三芳野天神と号して域内本丸近く天神曲輪に鎮座していた。当社の由緒を伝えるものに慶安二年松平信綱の奉納による『三芳野天神縁起』があり、九つの物語を絵に表している。これを要約すると次のようになる。
(一)川越の地名は、昔鷲宮明神が太刀と琴を持った男女二神を伴って、川を渡られたことに由来する。(二)「伊勢物語に載る三芳野の歌は、当所の初雁の杉を詠んだものである。(三)・(四)時代が下るにつれて、祭神も種々に変化し、奇瑞を表し、一般の信仰も高まって来る。(五)年代は不詳であるが北野の天神も合祀する。(六)・(七)・(八)当地は放鷹や騎射に適していたため、たびたび将軍が訪れ、当社への参詣もあり、初雁の物語を聞き、大変奇特だとして、寛永元年には酒井讃岐守に命じて当社を再興させる。寛永二年には、天海僧正が導師となって遷宮式を行う。(九)松平伊豆守が城主の時、神田を寄進する。
明治中ごろの祀官熊谷直就は、この慶安縁起を基に、中世の記録類『北条五代記』『永享記』、近くは社記・神宝などの史料を駆使し“熊谷縁起” ともいえるものを、編年体で著している。
この文書によると大同年中の建立後、長徳元年武蔵国司菅原修成が北野天神を勧請(一説には長禄元年太田道灌勧請とある)、正平二四年新田左衛門尉泰氏が三芳野出陣のおり戦勝を祈願し銅製五本骨の扇を奉納する。この銅扇は『永享記』に「御神体は、銅の五本骨の扇を納め奉り、御宝前の厳飾にも、みな扇を絵に書たり」とある。
長禄元年太田道真・道灌親子は古河公方方への防衛線の一環として川越城の縄張りを行い、同時に当社を城内の守護とし、別当広福寺を建て社の管理を任せ、天神を相殿に祀ったという。なお文明三年江戸城築城にあたり、道灌は喜多院鎮守日吉山王社と当社を江戸に分霊し、山王社は赤坂に、天神は平河にそれぞれ鎮祭したと伝えている。
川越城主は時の流れに従い更迭されるが、当社は代々崇敬されて連歌・和歌の奉納もあり、また社領等の奉納により社頭の隆盛をみる。天正一八年北条氏の後を関東に入国した徳川家康は川越城を重視し重臣酒井重忠を城主とし当社へ二十石の朱印状を与えている。
元和九年徳川家光は神鏡を奉納すると共に城主酒井讃岐守忠勝に社殿再営を命じ、二年後の寛永二年二月二四日喜多院天海僧正が導師となり遷宮祭を行う。以後幕府直轄の神社として庇護され、寛永二〇年広福寺は三芳野山高松院広福寺と改称、喜多院の末となり、明治二年廃寺になるまで別当職にあった。
明暦二年川越城拡張に伴い、江戸城二の丸東照宮空宮を当社から南の田郭門外に移築、天神外宮を造営し一般の参拝を許した。
明暦以後も寛文一一年から弘化四年の大修復に至るまで一四回の修理が行われる。当社が今日の姿となったのは明暦二年の修営によると伝え、社殿は権現造りの形を取り、現在、県指定文化財となっている。
寛永二年以来幕府の庇護を受けてきた当社は大政奉還、廃藩置県等の煽りを受けて後ろ盾を失い、城内建造物も明治四年ごろから順次取り壊しが始まり、別当高松院も廃され、当社と共に城内に鎮座していた八幡宮も当社へ合祀し、社名も「三芳野神社」と改称し、明治四年郷社となり二年後には県社となる。この段階で主祭神は素戔鳴尊・奇稲田姫命、配祀神に菅原道真公、合祀神を誉田別命と定められる。
また、川越市西方的場にも三芳野天神が祀られている。この社は的場山法城寺の域内にあり、寺縁起によると、寺は三芳野天神・若宮八幡の別当を務め正観音を安置し、三芳野塚の麓にある的場は本来三芳野と呼ばれて三芳野塚、三芳野池と呼ぶ名が残り『伊勢物語』にいう三芳野はこの地であると記す。『風土記稿』には「境内にて謂ゆる三芳野天神是なり、此神体を中頃今の川越城中へ移す」とある。『川越歴史小話』は「的場の地が三芳野の里をさし、平安末期三芳野塚上に天神を勧請三芳野天神と称した。中世、太田道灌は川越城築城に当り域内天神社を移す一方、的場には渡唐天神の神体が祀られた」としている。(「埼玉の神社」より)


三芳野神社所蔵の文化財

  • 三芳野神社(川越市指定史跡)
  • 三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社付明暦二年の棟札(埼玉県指定文化財)

三芳野神社

三芳野神社は、平安時代の初期に成立したと伝えられ、川越城内の天神曲輪に建てられている。この為、「お城の天神さま」として親しまれている。この天神さまにお参りするには、川越城の南大手門より入り、田郭門をとおり、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向う小道を進み、三芳野神社に直進する道をとおってお参りしていた。
この細い参道が、童唄「通りゃんせ」の歌詞の発生の地であるといわれ、現在でも静かな環境を保持しており、伝説の豊かな地である。
なお、参道は、江戸時代より若干変化している。(川越市教育委員会掲示より)

三芳野神社の周辺図