河越館跡|桓武平氏秩父氏の一族河越氏の居館跡地
河越館跡の概要
河越館跡は、川越市にある名所旧跡です。河越館跡は、桓武平氏秩父氏の一族河越氏の居館跡地です。河越氏は、源平合戦から南北朝時代にかけて活躍、上戸日枝神社を勧請した他、居館内に常楽寺を創建したものの、応安元年(1368)の「平一揆」により衰退しています。その後、管領山内上杉氏と川越扇谷上杉氏との争いに際し、管領山内上杉氏が陣を敷いたとされます。小田原北条氏の重臣大道寺氏も当地に居館を構え、大道寺駿河守政繁は常楽寺を中興しています。
名称 | 河越館跡 |
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みどころ | 国指定史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 川越市上戸1-21 |
備考 | - |
河越館跡の由緒
河越館跡は、桓武平氏秩父氏の一族河越氏の居館跡地です。河越氏は、源平合戦から南北朝時代にかけて活躍、上戸日枝神社を勧請した他、居館内に常楽寺を創建したものの、応安元年(1368)の「平一揆」により衰退しています。その後、管領山内上杉氏と川越扇谷上杉氏との争いに際し、管領山内上杉氏が陣を敷いたとされます。小田原北条氏の重臣大道寺氏も当地に居館を構え、大道寺駿河守政繁は常楽寺を中興しています。
新編武蔵風土記稿による河越館跡について
高麗郡之一總説
・・・【囘國雑記】に載す上ハ戸村を謂て川越と書するをもて考れば、往古川越の地は川を挟で稱すこと明らけし、日吉山王鐘の銘に、文應元年に河肥庄と書するものあり、左すれば川越の唱もとよりありしこといよいよ明らけし、河を川とし、肥を越と書するものは、後世改むるものなるべし、されば川越城の壘跡は日吉山王社地なるか、或は常楽寺のあたりなるべし、みな城跡壘跡とは云傳れど、聢とせし證左なし・・・(新編武蔵風土記稿より)
川越市教育委員会掲示による河越館跡について
国指定史跡河越館跡
河越館跡は、平安時代の終わり頃から南北朝時代の中頃までの約200年間、武蔵国で大きな勢力を誇った在地領主の河越氏の居館跡です。
河越氏は、桓武平氏秩父氏の流れを汲む一族で、平安時代の終わり頃、この地に館を構え、河越氏を名乗りました。
治承4年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵すると、河越氏は初め敵対しましたが、後に御家人となって平家討伐軍に参戦します。河越重頼は、義母の比企尼が頼朝の乳母であった縁から、娘を頼朝の弟義経に嫁がせ、自らは義経とともに平家討伐に奔走しました。その後、頼朝・義経兄弟が不仲になると、その縁から重頼と長男重房は誅殺され、一度は所領も没収されましたが、間もなく返され、三男重員は失っていた秩父氏の家督を得て、再び御家人として活躍しています。鎌倉時代の中頃には、経重が新日吉山王社(日枝神社)に銅鐘を寄進しており、河越氏と上戸の地の密接な関係を示しています。
鎌倉時代の後半になると、館の中に時宗常楽寺が開山され、河越館は大きく変貌します。後に、時宗15代上人尊恵が訪れ「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書かれた念仏札を配り大勢の人々で賑わうこともあったようです。
応安元年(1368)、突然河越氏や高坂氏ら「平一揆」が河越の館にたてこもって鎌倉府に反旗を翻しますが、あえなく敗れてしまいます。これ以降、河越氏は政治の表舞台からは姿を消し、河越氏と館の関係も幕を閉じることになります。
戦国時代になると、関東管領山内上杉氏が川越城の扇谷上杉氏に対抗するために、かつての河越館を含むこの周辺に陣所(上戸陣)を構えたことが知られます。現在、指定地の西に残る土塁は、その頃の遺構と考えられます。(川越市教育委員会掲示より)
河越館跡の周辺図