行傳寺。池上本門寺4世日山が開山
行傳寺の概要
日蓮宗寺院の行傳寺は、朝田山と号します。行傳寺は、豪族上田氏の帰依を受け、池上本門寺4世(永徳元年1381年寂)日山が永和年間(1375-1379)に開山、行典寺と号していたといいます。創建した地は不詳ながら、天文年間(1532-1555)には川越城一郭の松に所在、元和5年(1619)の火災により、翌年当地へ移転したといいます。現本堂は、文化9年(1812)に建立されたもので、『良質な欅材を用いた見事な建造物』です。
山号 | 朝田山 |
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院号 | - |
寺号 | 行傳寺 |
住所 | 川越市末広町2-4-2 |
宗派 | 日蓮宗 |
本尊 | - |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
行傳寺の縁起
行傳寺は、豪族上田氏の帰依を受け、池上本門寺4世(永徳元年1381年寂)日山が永和年間(1375-1379)に開山、行典寺と号していたといいます。創建した地は不詳ながら、天文年間(1532-1555)には川越城一郭の松に所在、元和5年(1619)の火災により、翌年当地へ移転したといいます。現本堂は、文化9年(1812)に建立されたもので、『良質な欅材を用いた見事な建造物』です。
境内掲示による行傳寺の縁起
日蓮宗行傳寺
徳治元年(一三〇六)に開かれた法華道場の小庵を前身とし「大本山池上本門寺」「本山鎌倉妙本寺」の両山第四世大鷲妙泉阿闍梨日山上人の教化を受けた豪族上田氏一門の丹精で、永和元年(一三七五)【朝田山行傳寺】と号し開創、開基日山上人の後継には両山第八世の大運阿闍梨日調上人、以後も代々名僧知識が住職になり、法燈連綿と今日に至る。創建の地は諸説あり、天文年間に川越城一郭の松郷に所在、元和五年(一六一九)地域の大火で類焼に及び堂宇伽藍悉く烏有に帰し現在地へ移転、文化九年(一八一二)現本堂建立『良質な欅材を用いた見事な建造物』と寺院建築の諸氏も称賛、由緒伝統を示す什宝あまた格護《通常非公開》(境内掲示より)
新編武蔵風土記稿による行傳寺の縁起
(行傳寺門前町)行傳寺
日蓮宗にて池上本門寺の末寺なり、朝田山と號す、開山日山古くは行典寺とかきしとみゆ、永和年中起立す日山は本山第四世の住僧にて、永徳元年九月七日化すと云、この寺昔は今の城中内廓の所にあり、城引移しのときもそのままたてりしを、天文年中に至りて城下松郷へ移され、かしこにあること數十年なりしが、元和五年三月朔日回禄にあひぬ、明る六年二月十九日今の地へうつりしよし、寺記にのせたり。
寺寳
経文一葉。七八寸四方なり、日蓮の筆なりと。
経文一葉。これもわづか許なる残闕なり、奥書に弘安元年大蔵甲寅三月廿日、手塚半助法號宗昌授與之とあり。
曼荼羅一幅。日朗の書なり。
題目一幅。これも同書なり。
科止観一部。大僧正天海手澤の本なりと云、奥書に元和元丁巳暦玉律上旬、西京於北野経堂常明寺宗存令刊摺之畢、又法華文句科止観の末に、此科文句廿三帖之内、仙波二老所化慈心坊以秘計、於江戸従南光僧正文庫之内取出、令感得茲而巳、于時寛永元稔(太才甲子)仲春時正日、河越之内朝田山行典寺第四繼踵行専院日椿とあり。
太鼓一。径三尺一寸尤古色に見ゆ、相傳ふ昔松山城中にありしものなりと、いかなる故にか、もとの城主酒井讃岐守忠勝が家人、田中某當寺へ寄進せしと云、銘文なければ造りし年代はしるべからずと。
古過去帳一冊。延徳明應の頃を始として多くの法名を記せり、中にも松山の上田氏、世々の諡號俗名をのせしなどは、考證ともすべきものなり、その餘にもかかる體多けれど、大抵國中の人物なれば、其人の傳に引用せしゆへここにはのせず。
惣門。元和九年五月廿八日建立せしと云。
中門。相傳ふ此門は昔當城の上戸にありし頃の門なりしを、後に城主より寄附せし所なりと云、いかさま四百餘年のものと見えて、兩柱に虫食し痕多し、茅葺にていと古質に見ゆ、朝田山の三字をかかぐ、落款に大明虎林白山人陳氏元□姜都甫正嫡、梅峰悠々翁、敬書とあり。
本堂。本尊三寳を安ず。
鐘楼。此鐘ゆへ有て多賀町の防火楼に移して、今は樓のみ立り。
三十番神堂。大黒の像を相殿とす。
稲荷社。疱瘡神社。黒池菴。
愛正院。今は廢せり。
圓行院。是も今は廢す、昔は此二院の外にも塔頭多かりしが、寛永年中不受不施の戒律を偏執せしにより、院主の罪を蒙て廢せらる。(新編武蔵風土記稿より)
行傳寺の周辺図