鶴ヶ丸八幡神社。芝村代官が房州鶴谷八幡神社を勧請
鶴ヶ丸八幡神社の概要
鶴ヶ丸八幡神社は、川口市芝にある八幡神社です。鶴ヶ丸八幡神社は、寛永3年(1626)芝村代官熊沢三郎左衛門尉藤原忠勝が、房州鶴谷八幡神社の分霊を勧請して長徳寺境内に創建、江戸幕府より八幡社領として15石の御朱印状を拝領したといいます。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 誉田別尊 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 川口市芝6843 |
備考 | - |
鶴ヶ丸八幡神社の由緒
鶴ヶ丸八幡神社は、寛永3年(1626)芝村代官熊沢三郎左衛門尉藤原忠勝が、房州鶴谷八幡神社の分霊を勧請して長徳寺境内に創建、江戸幕府より八幡社領として15石の御朱印状を拝領したといいます。
新編武蔵風土記稿による鶴ヶ丸八幡神社の由緒
(芝村長徳寺項)
八幡社。境内にあり、社領十五石は大猷院殿の御寄附なり、寺記に據ば安房國鶴谷と云所に、勧請せし八幡を爰に移せり、熊澤三郎左衛門の建立なりと云、鶴丸八幡と稱せり、本社の傍に神宮寺と云る小院を置守らしむ、是は龍派和尚の草創なりと云。(新編武蔵風土記稿より)
埼玉県神社庁「埼玉の神社」による鶴ヶ丸八幡神社の由緒
八幡神社(川口市芝六八四三)芝字鶴ケ丸
寛永五年の「鶴ケ丸八幡社再建頌記」(長徳寺文書)によれば、当社の創建は、同三年(一六二六)四月のことで、芝村の代官熊沢三郎左衛門忠勝により房州鶴ケ谷(千葉県館山)の八幡宮から勧請された。
当時、幕府の命で忠勝は、改易となった里見忠義の後を受け、宰官の任に当たるため安房の地にしばしば赴いていた。恐らくは、鶴谷八幡神社が同地の総社として聞こえの高かったことから、芝村の安穏と熊沢一族の繁栄を願い、当地に分霊したものであろう。
遷宮式は、寛永三年の四月二十三日に行われ、竜派禅珠の著した『寒松稿』によれば、鼓や鉦を鳴らして巫女舞や獅子舞がにぎやかに奉納されたという。その後も忠勝は当社の整備に力を注ぎ、寛永五年に本殿を改築して神輿や祭礼道具を奉納し、更に翌六年には梵鐘を寄進した。現社殿はこの時のものであり、蟇股・組物・彩色等に桃山風の遺風をとどめる貴重なもので、昭和六十年には、県文化財の指定を受けている。
また、当社の管理状況については、熊沢氏と交友の深かった長徳寺竜派禅珠に任せ、寛永十三年に社の傍らに神宮寺という、長徳寺の隠居寺を兼ねた小院を建立して守らしめたという。『風土記稿』芝村の項に、当社は長徳寺の境内社として載り、朱印地一五石を有したとある。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
鶴ヶ丸八幡神社所蔵の文化財
- 鶴ヶ丸八幡神社(県指定有形文化財)
鶴ヶ丸八幡神社
本社は、寛永3年(1626)芝村の代官熊沢三郎左衛門尉藤原忠勝が、房州(現:千葉県南部)の鶴谷八幡神社の分霊を勧請したことに始まる。現存する建物の建立年代は、棟札から寛永5年(1628)と考えられる。本殿は三間社流造で、屋根は杮葺である。身舎は、向拝(礼拝するところの軒)がつけられ、海老虹梁で結ばれており、切目・長押で固め、組物は出三斗、中備に蟇股を配する。軒は二軒で繁垂木、妻飾りは虹梁大瓶束とし、蟇股内部よは彫刻を施し、内法長押より上を彩色で飾る。蟇股や桁・頭貫などに施された亀甲などの彩色文様や細部意匠にその時代の特色をよく示している。(境内掲示より)
鶴ヶ丸八幡神社の周辺図