赤山陣屋敷址|川口市赤山の名所旧跡

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赤山陣屋敷址|関東郡代伊奈氏の陣屋址

赤山陣屋敷址の概要

赤山陣屋敷址は、川口市にある名所旧跡です。赤山陣屋敷址は、寛永6年(1629)に伊奈町小室から当地赤山へ陣屋を移した関東郡代伊奈氏の陣屋址です。関東郡代とは、江戸幕府の関東地方の直轄地を治める役職で、伊奈氏は、荒川の西遷や、利根川の東遷などに取り組み、江戸を洪水から守り、洪水の起きやすい湿地帯の乾燥化、水流の乏しい地域へ河川を流すことで新田開発を活性化、さらには利根川からの水運新興など、関東地方の発展に欠かせない事業に取り組みました。伊奈忠次は、徳川家康が関東入国した後鴻巣・伊奈町小室に1万石を領有、その次男伊奈忠治は別途赤山に7千石を受領し、赤山陣屋の創建は伊奈忠治が関東郡代職を継いで赤山を領した元和4年(1618)頃といいます。赤山陣屋の広さは24,000坪あったとされ、空堀と土塁で囲まれた本丸・二の丸のほか、家臣団屋敷などで構成された城郭でしたが、寛政4年(1792)12代忠尊の代に改易され陣屋は廃止となり、畑地に転用されたことから、現在では空堀・土塁の址のみが残されています。

赤山陣屋敷址
赤山陣屋敷址の概要
名称 赤山陣屋敷址
みどころ 史跡
入場時間 -
入場料 -
住所 川口市赤山
備考 -




赤山陣屋敷址の由緒

赤山陣屋敷址は、寛永6年(1629)に伊奈町小室から当地赤山へ陣屋を移した関東郡代伊奈氏の陣屋址です。関東郡代とは、江戸幕府の関東地方の直轄地を治める役職で、伊奈氏は、荒川の西遷(秩父から元荒川に注いでいた水系を行田市で現荒川へ付替え)や、利根川の東遷(水上から江戸川に注いでいた水系を茨城県境町から銚子市へ注ぐ鬼怒川へ付替え)などに取り組み、江戸を洪水から守り、洪水の起きやすい湿地帯の乾燥化、水流の乏しい地域へ河川を流すことで新田開発を活性化、さらには利根川からの水運新興など、関東地方の発展に欠かせない事業に取り組みました。伊奈忠次は、徳川家康が関東入国した後鴻巣・伊奈町小室に1万石を領有、その次男伊奈忠治は別途赤山に7千石を受領し、赤山陣屋の創建は伊奈忠治が関東郡代職を継いで赤山を領した元和4年(1618)頃といいます。赤山陣屋の広さは24,000坪あったとされ、空堀と土塁で囲まれた本丸・二の丸のほか、家臣団屋敷などで構成された城郭でしたが、寛政4年(1792)12代忠尊の代に改易され陣屋は廃止となり、畑地に転用されたことから、現在では空堀・土塁の址のみが残されています。

川口市教育委員会掲示による赤山陣屋敷址について

赤山陣屋敷址
赤山陣屋は、代官(通称:関東郡代)伊奈氏が江戸幕府の直轄地を治めるためその任地に設けた役所の一つで、元和4年(1618)頃伊奈家3代忠治によって創建されたといわれています。
陣屋の構造は右図の通りで、約2万4千坪の広さがありました。陣屋の中枢部には、表脚門・裏脚門・御屋形・御役家・御的場といった施設があり、北側と西側は2重の堀でかこまれていました。外堀には水があり、内堀は空堀で、この内側には土塁が築かれていました。また東側には山王三社と家臣団屋敷、南側・西側にも家臣団屋敷がありました。この屋敷は堀の内に17、外に1あり、その他に門番屋敷などもありました。屋敷の規模で一番多かったのは一町前後のものです。
陣屋の内外の道路はT字路で直角に曲がっているものが多く、その両側には家臣団の屋敷や社寺が配置され、赤山陣屋はあたかも小さな城下町のようでした。社寺には、山王三社といわれる山王社・八幡社・天神社と、伊奈家の菩提寺であった源長寺がありました。
なお、伊奈家は、寛政4年(1792)12代忠尊の時、幕府政治の変化と家中の騒動が原因で改易され、赤山陣屋も廃止されました。このため陣屋の建物や家臣団屋敷は取り壊されて畑地となり、今は空堀と社寺を残すのみとなっています。(川口市教育委員会掲示より)

埼玉県掲示による赤山陣屋敷址について

赤山城跡
伊奈氏は、家康の関東入国とともに鴻巣・小室領一万石を給され、熊蔵忠次以後十二代にわたって関東郡代職にあり、関八州の幕領を管轄し、貢税、水利、新田開発等にあたった。三代忠治の時に、赤山領として幕府から七千石を賜り、寛永六年(一六二九)に小室(現北足立郡伊奈町)から赤山の地に陣屋を移した。これが赤山城で、以後十代一六三年間伊奈氏が居城したものであるが、現在では、東側に堀と土塁を一部残すのみである。
城跡の南方に隣接する源長寺は、伊奈氏の菩提寺として、四代忠克以後の代々の墓があり、五代忠常建立の頌徳碑には忠次、忠政、忠治の業績が刻まれている。(埼玉県掲示より)

川口市教育委員会掲示による赤山陣屋敷址について

伊奈氏と赤山陣屋
赤山陣屋は、赤山の地に新たに7千石を与えられ代官(通称:関東郡代)の職についた伊奈半十郎忠治が、元和4(1618)年頃に在地支配開発事業の拠点とするために築いたと言われています。以来、10代忠尊が改易された寛政4(1792)年までこの地に存続しました。
この陣屋は、本丸(御屋形)と二の丸部分だけで約110,000㎡、周囲に広がる家臣持分の土地や菩提寺である源長寺・山王神社などの付帯施設も含めると、実に770,000㎡にも及ぶ広大なものです。
伊奈氏は、用水の開削や新田開発など、治水・利水事業に数多くの業績を残したことで、歴史上に特にその名が知られております。
このことから、水辺の文化をはぐくんできた川口のあゆみをひもとくとき、赤山陣屋址は先人の偉業を偲ぶことのできる、最も重要な遺跡の一つであるといえましょう。そしてこの遺跡の中には、水害と戦った伊奈氏にふさわしく、水神やその化身としての大蛇にかかわる伝説や民話がたくさん伝えられているほか、創建当初からの道も、生活道路として現在も利用されており、赤山道という名も今に残されています。もちろん、陣屋のたたずまいを示す空堀や土塁も残っています。
左の図は、赤山陣屋敷絵図面(市指定文化財)をもとに、現在の地形図の上に陣屋の配置を描いたものです。陣屋全体が自然の低湿地によって囲まれ、主要な入口には門番が配置され、「四ツ門」と呼ばれていました。また、本丸と二の丸は人口の空堀によって囲まれています。これら陣屋の構造から、伊奈氏の卓越した土木技術をうかがい知ることができます。つまり赤山陣屋址は、近世初期に発達した、伊奈流(備前流)と称される土木技術の粋を集めた、代表的な遺跡であると言えましょう。(境内掲示より)


新編武蔵風土記稿による赤山陣屋敷址について

(赤山村附持添新田)
舊蹟陣屋跡
村の東北の方にあり、前に辨せし如く寛永六年伊奈半十郎忠治が構へしより、其後世々家人を置て守らせしが、完成四年沒収せられし時に廢して、今は御林となれり、其構の内凡二萬四千坪廻りに堀を構へ土居を築き、北の方は沼を以て要害となし、其餘の三方に家人の住宅あり、南の方に鳩ヶ谷口と云門あり、是すなはち表門なりと云、其外東の方に安行・領家の二村へ行く道あり、又東北の方に越ヶ谷口と呼る道あり、北の方に石神口といへる門をも建て、是を總て四ツ門と唱へしとぞ、今はただ土居の跡殘りしのみにて雑木生ひ茂れり、 (新編武蔵風土記稿より)

赤山陣屋敷址の周辺図