養竹院。太田道灌追福のため養子太田信濃守資家が創建、中武蔵七十二薬師
養竹院の概要
臨済宗円覚寺派寺院の養竹院は、常樂山と号します。養竹院は、太田道灌の甥で、道灌の養子となった岩槻城主太田信濃守資家(大永2年1522年没、法名養竹院義芳道永)が太田道灌追福のため明応年間(1492-1500)に創建、太田道灌の弟の叔悦禅師(大永5年1525年寂)を鎌倉円覚寺より招請して開山したといいます。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には寺領10石の御朱印状を受領、徳川家光は鷹狩りの際に当寺に立ち寄り、当寺の枝垂桜を愛でて詩歌を詠んだとされ、林羅山詩集にもその詩が記載されています。本堂の薬師如来像は中武蔵七十二薬師32番、観音堂の千手観音像は大本山円覚寺百観音霊場39番です。
山号 | 常樂山 |
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院号 | 養竹院 |
寺号 | - |
本尊 | 薬師如来像 |
住所 | 比企郡川島町表9 |
宗派 | 臨済宗円覚寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
養竹院の縁起
養竹院は、太田道灌の甥で、道灌の養子となった岩槻城主太田信濃守資家(大永2年1522年没、法名養竹院義芳道永)が太田道灌追福のため明応年間(1492-1500)に創建、太田道灌の弟の叔悦禅師(大永5年1525年寂)を鎌倉円覚寺より招請して開山したといいます。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には寺領10石の御朱印状を受領、徳川家光は鷹狩りの際に当寺に立ち寄り、当寺の枝垂桜を愛でて詩歌を詠んだとされ、林羅山詩集にもその詩が記載されています。開山の叔悦禅師は、荒川対岸に藤波密嚴院も開山しています。
新編武蔵風土記稿による養竹院の縁起
(表村)
養竹院
禅宗臨済派、鎌倉圓覺寺末、常樂山と號す、天正十九年十一月寺領の御朱印を賜ふ、其文に三保谷郷の内十石とあり、寺傳に云、當寺の境内は古へ太田備中守資長入道道灌の陣屋なり、其子信濃守資家明應の頃、父道灌追福のため、伯父叔悦禅師を開山として建立すと、禅師は天文四年七月十六日示寂す、開基資家は大永二年正月十六日卒し、法名を養竹院義芳道永と號す、今の院號は資家が謚號にとりしこと知べし、今按るに此寺傳少く誤まれるにや、信濃守資家は道灌が子にあらで姪なり、又此資家が法謚を以て院名にとれば、恐くは資家が菩提の爲に建しなるべし、今本尊薬師を本堂に安じ、傍に太田氏の位牌ををき、資清以来六人の法謚命日を記す、自得院殿實慶道眞庵主、□□□二月朔日、太田備中守資清、香月院殿春苑道灌庵主、文明十八年丙午七月二十六日、同左衛門太夫資長、養竹院殿義芳道永庵主、大永二年壬午正月十六日、同信濃守資家、壽仙院殿智樂道可庵主、天文五年丙午四月廿日、同美濃守資賴、智正院殿嶽雲道端庵主天正十九年卯月九月八日、同美濃守資正入道三樂斎、瑞瓊院殿靈顏道鷲庵主、寛永二十年癸未十一月十日、同安房守資武とあり、又寺傳に資武が時、家衰へ流浪して北越に赴き、夫より四代左兵衛資政がとき、河内國へ移り、今彼國に子孫ありと云、
鐘樓。寶暦七年に鑄し、鐘を掛く、
垂絲櫻。本堂の前にあり、花は單辨して薄紅色たり、二本あり一は圍五尺許、高一丈五尺程、一は同太さにして、高はすこしくまされり、寛永七年大猷院殿御鷹野の次境内へ渡御ありて、此花を御覧せられし時の御詠に、しら糸をかけみだしたるみをのやの、櫻をけふのあるじとぞ見る、とあそばされし御筆の短冊を賜へり、御短冊は尋常の製にて、讀人しらずと書せ賜へり、後に此御歌みだしたると云詞をならべたると、御改作ありしといひ傳ふ、箱の裏書に寛永七年辛申二月下弦大樹家光公、武州三保谷郷養竹院御駕を寄らる時に、寺紋の櫻爛漫たるに御詠自ら御筆を染られ、院主に是を賜ふとあり、辛申は庚午の誤なるべし、羅山詩集云、二月廿二日從御獵遊、于武州水尾野谷養竹院有垂絲櫻花一株、其高五六丈、其本圍八尺許、
花在我朝名最眞、風枝數尺裊絲綸、小蠜焚素離魂合、一樹山櫻兩美人
當時の樹は枯て、今に至る迄すべて、三度植繼しと云、
天神社
辨天社(新編武蔵風土記稿より)
養竹院所蔵の文化財
- 紙本着色叔悦禅師頂相(埼玉県指定有形文化財)
- 絹本着色太田資頼像(埼玉県指定有形文化財)
- 紙本着色達磨図信方印(埼玉県指定有形文化財)
紙本着色叔悦禅師頂相(埼玉県立博物館蔵)
養竹院は明応の頃(一四九二~一五〇〇)太田道灌の養子の岩槻城主太田信濃守資家が道灌の為に建てて、道灌の弟の叔悦(一五二五年没)を鎌倉の円覚寺から招いて開いたお寺です。
叔悦禅師頂相とは、禅宗のお坊さんである。叔悦が曲彔という椅子にかけた縦八三センチメートル、横三七・五センチメートルの肖像画のことです。
叔悦の後をついだ奇文というお坊さんが描かせたもので絵の上部には建長寺の賜谷という人が賛(たたえたことば)をしています。この賛には叔悦が相模地方(今の神奈川県)で生れ、若い頃から円覚寺で学問や修行をした立派なお坊さんであることが書かれています。
絵の色がだいぶ薄くなってしまい、下絵の線が見えているところもありますが、叔悦がまだ生きていたときの姿がわかるだけでなく室町時代のお坊さんのようすがわかるので県内ではたいへん貴重なものです。
なお、養竹院には資家の子資頼の姿を描いた画像や墓その他のものもあります。(埼玉県教育委員会川島町教育委員会掲示より)
養竹院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉宗教名鑑」