瑞露山密厳院。太田道灌の養子太田信濃守資家が開山
密厳院の概要
臨済宗円覚寺派寺院の密厳院は、瑞露山藤波寺と号します。密厳院の創建年代等は不詳ながら、真言宗の古道場だったといいます。その後衰廃していた当寺を太田道灌の養子太田信濃守資家が明応年間(1492-1501)に、叔父の叔悦を招いて臨済宗に改め開山したといいます。足立坂東観音霊場20番です。
山号 | 瑞露山 |
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院号 | 密厳院 |
寺号 | 藤波寺 |
本尊 | 観音菩薩 |
住所 | 上尾市藤波2-196 |
宗派 | 臨済宗円覚寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
密厳院の縁起
密厳院の創建年代等は不詳ながら、真言宗の古道場だったといいます。その後衰廃していた当寺を太田道灌の養子太田信濃守資家が明応年間(1492-1501)に、叔父の叔悦を招いて臨済宗に改め開山したといいます。
新編武蔵風土記稿による密厳院の縁起
(藤浪村)密嚴院
禅宗臨済宗、相州鎌倉圓覺寺末、瑞露山藤波寺と號す、當寺もと新義眞言宗の古道場なりしが、中古衰廢せしを明應の頃、太田信濃守資家己が叔父叔悦善治を請して堂塔を再興し、済家に改宗して圓覺寺の末に屬せりよりて叔悦を開山と崇め、資家をもて開基とす、資家大永二年正月十六日卒し、養竹院義芳道永庵主と謚す、叔悦は天文四年七月十六日寂を示す、又比企郡表村養竹院も當寺と同く資家が叔悦を開山として草創せし寺なれば、幷せ觀べし、本尊正観音を安ず、腹籠りに運慶の刻める長一寸八分の尊像を収む、是太田道灌の守本尊にて、資家が納めしものなりといへど、其正しきことを知らず、文書二通を蔵す、一は大道寺駿河守政繁より與へし制札なり、一は藤波與五右衛門殿と書せしものにて、こは當寺に拘はりたる品にはあらざれど、共に寺寶として蔵すればしばらく後に附録す、近村領家村に藤波を氏とする村民あり、彼が家より納めしものなるにや、されど舊家にもあらず、且系圖をも所持せざれば考ふるに由なし。
禁制
右至于密嚴院中河越足輕濫妨狼藉堅被令停止畢、若於違犯輩ハ急度可有註進候、但惣働御出馬之砌ハ御印判申調可進置者也、仍如件、
亥三月廿四日 大道寺(花押)
密嚴院
(中略)
外に叔悦禅師の書せしと云紺紙金泥の法華經二軸を蔵。
観音堂。本尊如意輪観音を安ず、坐像にて長一尺四寸許、傳へ云昔篠田圖書といへるもの、暦應五年當所の原に於て、木にて刻める観音の頭を感得し尊崇斜ならず、佛工安阿彌を招き其尊體を刻ましめ、一宇を建立して安置せしを、後年當寺の境内に引移せりと云、其舊地を今に如意輪原と唱ふ、則前に出せり、さて、此圖書は名主金右衛門が先祖なりといへど、家系を所持せざれば其詳なることを知られず。
鍾樓。明和元年鑄造の鐘をかく。(新編武蔵風土記稿より)
「上尾の神社・寺院」による密厳院の縁起
密厳院はもと真言宗であったが、中古衰微したため、明応の頃(1492-1501)太田信濃守資家が叔父の叔悦を招いて再興し臨済宗に改宗した。(「上尾の神社・寺院」より)
密厳院の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「上尾の神社・寺院」(上尾市教育委員会)