正能諏訪神社。加須市正能の神社

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正能諏訪神社。丸正講先達富士登山成就記念碑

正能諏訪神社の概要

正能諏訪神社は、加須市正能にある諏訪神社です。正能諏訪神社の創建年代等は不詳ながら、信州の諏訪大社より作神として勧請したと伝えられます。明治維新後の明治40年には字当開戸の久伊豆社と字大同の雷電社を合祀しています。丸正講先達富士登山成就記念碑は、丸正講の青木先達家(正能)が、五代目の富士登山四十五回と、初代から六代までの代々が三十三回の富士登山成就を記念したもので、市有形文化財に指定されています。

正能諏訪神社
正能諏訪神社の概要
社号 諏訪神社
祭神 建御名方命
相殿 -
境内社 -
祭日 春祭り4月27日、夏祭り7月27日、秋祭り10月27日
住所 加須市正能200-1
備考 -



正能諏訪神社の由緒

正能諏訪神社の創建年代等は不詳ながら、信州の諏訪大社より作神として勧請したと伝えられます。明治維新後の明治40年には字当開戸の久伊豆社と字大同の雷電社を合祀しています。丸正講先達富士登山成就記念碑は、丸正講の青木先達家(正能)が、五代目の富士登山四十五回と、初代から六代までの代々が三十三回の富士登山成就を記念したもので、市有形文化財に指定されています。

新編武蔵風土記稿による正能諏訪神社の由緒

(正能村)
諏訪神社
村の鎮守なり、龍花院持、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による正能諏訪神社の由緒

諏訪神社<騎西町正能二〇〇(正能字当開戸)>
当地は新川用水に沿う集落で、かつてここには式内社の玉敷神社も久伊豆神社という社名で鎮座していたことがある。『風土記稿』には、小名宮内とあり、これは当地に久伊豆神社の供免地があったために付けられた名で、久伊豆社移転後もここは河野隠岐持ちであった。
当社の創建は明らかではないが、口碑によれば信州の諏訪大社より作神として勧請したと伝える。
祭神は建御名方命であり、内陣には金幣を祀る。
別当は、幕末まで真言宗竜花院が務めていたが、明治期に入り神仏分離となり、以来神職が奉仕するようになった。初め河野家が、次いで森野家が務め、現在は新横家が継いでいる。
明治四〇年に字当開戸の久伊豆社と字大同の雷電社を合祀した。このうち、雷電社は現在も旧地に石宮が残っている。以前ここには松の大木が一本生えていたことから、この辺を一本木耕地と称し、雷が来る度に黒雲が松の上を覆い、よく雨を降らせたという。そのため、このあたりの地主三名は雷神に感謝し、明治一七年に石宮を建立している。
当社境内には、明治から昭和にかけて奉納された伊勢太々講の記念物が多い。例えば、石灯龍・狛犬・社号標・玉垣などである。(「埼玉の神社」より)

境内掲示による正能諏訪神社の由緒

諏訪神社
当社の創建は不詳であるが、昔、信州諏訪大社の分霊を祀ったことによるという。主祭神は建御名方命で、豊作を司る神として崇敬される。
明治四十年には、伊豆社と雷電社が合祀されている。雷電社は字大道に鎮座していたが、この辺りに松の大木が一本生えており、雷が来る度に黒雲が木の上を覆い、よく雨を降らせたという。そのため、これに感謝した村人が雷神を祀ったと伝える。
また、境内には嘉永五年銘(一八五二)の富士登山記念碑がある。これは丸正講の先達であった五代目正行信山の四十五度の富士登山と、代々の大願成就を祝って建立したものである。碑の周囲には建碑に参加した関東一円の人々の名が刻まれている。(加須市教育委員会掲示より)


正能諏訪神社所蔵の文化財

  • 丸正講先達富士登山成就記念碑(市指定有形文化財)

新編武蔵風土記稿による正能諏訪神社の由緒

江戸時代、富士山に集団で登拝する信仰が隆盛し、富士講(浅間講)と呼ばれた。この講は先達を中心に組織され、そのひとつが丸正講の青木先達家(正能・青木浩家)であった。青木先達家は、一行初山の行者名を名乗る半右衛門を講祖に、元禄十二年(一六九九)には富士登山三十三回の大願を成就、以後、二代誠行二山、三代三行鏡山、四代泰行清山と続き、五代正行信山、六代正行生山の頃には傘下に四、五千人を有する関東屈指の大講社となった。
ここに造立する碑(嘉永五年(一八五二)十月二十六日銘・総高四一二センチメートル)は、五代目の富士登山四十五回と、初代から六代までの代々が三十三回の富士登山成就を記念したもの。台石には建碑に関係した村名や人名が刻まれ、その影響力は五十里(約二〇〇キロ)四方に及んだという。(加須市教育委員会掲示より)

正能諏訪神社の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)