東間浅間神社。北本市東間の神社
東間浅間神社の概要
東間浅間神社は、北本市東間にある神社です。東間浅間神社の創建年代などは不詳ながら、崇徳天皇の御世、武蔵国守大納言藤原俊行公が霊夢により当社を創建したとも、江戸時代初期に大島家の先祖深井藤右衛門及び長楽坊・大乗坊が当社を勧請したとも、また鴻巣の勝願寺の和尚の世話で大島家の氏神を鎮守のなかった当地に遷し祀ったともいいます。明治6年村社に列格していました。
社号 | 浅間神社 |
---|---|
祭神 | 木花咲耶姫命 |
相殿 | - |
境内社 | 天神社、八幡社、弁天社 |
祭日 | 例大祭6月30日・7月1日 |
住所 | 北本市東間1-6 |
備考 | - |
東間浅間神社の由緒
東間浅間神社の創建年代などは不詳ながら、崇徳天皇の御世、武蔵国守大納言藤原俊行公が霊夢により当社を創建したとも、江戸時代初期に大島家の先祖深井藤右衛門及び長楽坊・大乗坊が当社を勧請したとも、また鴻巣の勝願寺の和尚の世話で大島家の氏神を鎮守のなかった当地に遷し祀ったともいいます。明治6年村社に列格していました。
新編武蔵風土記稿による東間浅間神社の由緒
(東間村)
淺間社
村の鎮守なり、本地薬師を安ず、秘佛なりとてたやすく示すことをゆるさず。
末社。天神社、稲荷社
別當寶光寺
天台宗、川田谷村泉福寺末、東土山實相院と稱せり、近村宮内村の名主彦兵衛が所持する記録に、鴻巣東新田富士淺間は伊奈備前守御代官の頃、深井藤右衛門及び長榮坊大乗坊勧請すとあり、是當社のことなるべし、此内深井藤右衛門は鴻巣の内宮地の民勘右衛門、及び生出塚村の民源右衛門が祖先なり、其餘二人は何れの人なるや詳にせず、分科年中回録の災に罹り、未だ再興せず。
鍾樓。貞享三年新鑄の鐘をかく、銘文あれど考證に益なければ取らず。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による東間浅間神社の由緒
浅間神社<北本市東間一-六(東間字宮ノ下)>
当社は中山道に面し旧北本宿の北部にあり、築山の上に社殿が建つ。
創建については、諸説が伝わる。一説は、万延元年(一八六〇)当時別当を務めていた宝光寺(明治四年に廃寺)が、当社本尊であった薬師如来像御開帳の折に、版木を刷って配布した「富士大権現略縁起」によるもので、崇徳天皇の御世、武蔵国守であった大納言藤原俊行公の霊夢に、最初は本地薬師如来の姿で、二度目は木花開耶姫となって現れた祭神が、社地を示し、貴賎男女の繁栄の地となすべしと言って東を指して飛び去った。その後、直ちに社殿を建立したという。
また一説は、『風土記稿』東間村の項に載るもので、「近村宮内村の名主彦兵衛が所持する記録に、鴻巣東新田富士浅間は伊奈備前守御代官の頃、深井藤右衛門及び長楽坊・大乗坊勧請すとあり、是当社のことなるべし」とある。ちなみに当社は、寛永年間(一六二四-四三)のころまでは鴻巣領東新田と呼ばれていた。また、ここに見える名主彦兵衛は、現在も宮内に住む旧家大島家の先祖で、もとは北条家の家臣で、岩槻城太田氏房の城代家老を務めていたが、小田原落城の折、当地に落ち延びたという。
しかし、その大島家の口碑には「当社は元は当家の氏神であったが、鴻巣の勝願寺の和尚の世話で鎮守のなかった当地に遷し祀った」とあり、いずれとも決め難い。明治六年四月、当社は村社となった。(「埼玉の神社」より)
東間浅間神社所蔵の文化財
- 東間の富士塚(北本市指定有形民俗文化財)
東間の富士塚
地元で「センゲンサマ」と呼ばれているこの富士塚は、東西約三十七m、南北約二十七m、高さ約六mの規模で、頂には木造の社殿が建てられている。参道と東側の石段および社殿は直線状に配置され、これを延長した先は実際の富士山を正確に指向する。中腹には享保八年(一七二三)の銘が入った「石段供養塔」が建てられており、塚の築造時期は、少なくとも江戸時代中期にさかのぼると考えられる。
このため東間の富士塚は、江戸時代後期に隆盛した「富士講」以前の古い富士信仰による築造である、近在においても類例が少なく大変貴重である。
毎年六月三十日、七月一日には、この一年の間に生まれた赤ちゃんの成長を祈願する初山行事が行われている。(北本市教育委員会掲示より)
東間浅間神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)