石戸宿天神社。ささら獅子舞
石戸宿天神社の概要
石戸宿天神社は、北本市石戸宿にある神社です。石戸宿天神社の創建年代等は不詳ながら、石戸城の鎮守として祀られたのではないかとも推定され、江戸期に石戸宿村の鎮守として創祀したともいいます。例祭で奉納されるささら獅子舞は、北本市無形民俗文化財に指定されています。
社号 | 天神社 |
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祭神 | 菅原道眞公 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 十月第二週の日曜日 |
住所 | 北本市石戸宿6-64 |
備考 | - |
石戸宿天神社の由緒
石戸宿天神社の創建年代等は不詳ながら、石戸城の鎮守として祀られたのではないかとも推定され、江戸期に石戸宿村の鎮守として創祀したともいいます。
新編武蔵風土記稿による石戸宿天神社の由緒
(石戸宿村)
天神社
當所の鎮守なり、村民の持。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による石戸宿天神社の由緒
天神社<北本市石戸宿六-六四(石戸宿字城山)>
荒川の東岸沿いに位置する石戸宿は、戦国期には、河越から鴻巣・忍を経て上野国に至る街道と、岩付城へ至る街道上の要地に当たっていた。地内には、太田道灌が岩付城の支城として築いたとも、扇谷上杉氏の家人八右衛門が在城したとも伝える石戸城跡がある。この城は別名を天神山城とも呼ばれていた。
太田道灌が、河越城を築いた際にも城の鎮守として場内に天神社を勧請(註:三芳野神社に合祀されている)したことを考え合わせると、当城にも同様に天神社が祀られたのであろう。当社は、かつて荒川の堤外地に祀られていたとされるので、城が廃された時に、堤外に遷されたものが、移転を重ねた結果、現在地に遷されたと考えられる。氏子の口碑には「天神様は、荒川が流れを変える度に、三度も遷ってきた」とある。社蔵の、最後に現在地に遷座された時のものと思われる木札には「(梵字)奉改社地天満宮天下泰平国土安全之所 天明三癸卯歳(一七八三)三月吉祥日 別当梅林院 放光寺現在宜範」と記されている。
また、現在の本殿は、彫刻の裏に「宝暦癸酉八月」とあることから宝暦三年(一七五三)の造立である。この内陣には、天満天神座像が奉安されており、社蔵の木札には、「(梵字)奉刻天満大自在天神像 氏子繁昌守護 宝暦九歳次己卯(一七五九)十月摩訶吉祥日 別当放光寺」と記されている。(「埼玉の神社」より)
埼玉県・北本市掲示による石戸宿天神社の由緒
石戸宿の歴史は古く、鎌倉街道に沿って中世期から開かれていたという。また、江戸時代には、石戸領二十村の本郷といわれ、末期には毎年三月二日・五月二日・七月十一日・十二月二十七日の四回、市が立り賑わっていた。
街道に沿って民家が立ち並ぶという典型的な宿場の景観を今に伝えている。また、昔は道路の中央に排水溝が設けられていたという。
天神社は、江戸時代の中期頃に石戸宿の鎮守として勧請されたと言われ、祭神は菅原道真である。
祭礼は、二月二十五日・十月十五日(現在は十月第二週の日曜日)で、この日には「ささら獅子舞」(市指定文化財)が奉納(上演)される。(埼玉県・北本市掲示より)
石戸宿天神社の由緒
- 天神社ささら獅子舞(北本市指定無形民俗文化財)
天神社ささら獅子舞
獅子舞は、古くは「祓い」の信仰から起り、発達して今日に至ったと考えられ、三頭の獅子(関東では、このような三頭だてが多くみられる。)が腰につけた太鼓をたたきながら笛・ササラなどの伴奏で舞い、五穀豊穣・家内安全等を祈願する民俗芸能である。
獅子舞をささら獅子舞というのは、舞いの折に、花笠の役が持つ、丸竹の三分の一くらいをけずり、先を細かくさいた丸竹をこすりつけて鳴らす楽器の名から出たものである。
市内のささら獅子舞は、当神社のみであるが、後継者不足等により長い間中断していたが、昭和五十三年に復活した。
獅子のほか、花笠・笛方等四十名で構成されており、毎十月十五日に上演される。(北本市教育委員会掲示より)
石戸宿天神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)