無量寿院。源頼朝の命により創建
無量寿院の概要
真言宗智山派寺院の無量寿院は、大雲山大佛寺と号します。無量寿院は、源頼朝の命により創建したと伝えられ、往古は塔頭6坊を擁していたといいます。江戸時代前期には3坊は廃していたものの、江戸時代後期に至っても幅約9m、長さ180mの大門通りを構え、境内には白山神社・大堂等を擁していた、北本市内屈指の古寺です。
山号 | 大雲山 |
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院号 | 無量寿院 |
寺号 | 大佛寺 |
住所 | 北本市朝日2-215 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
無量寿院の縁起
無量寿院は、源頼朝の命により創建したと伝えられ、往古は塔頭6坊を擁していたといいます。江戸時代前期には3坊は廃していたものの、江戸時代後期に至っても幅約9m、長さ180mの大門通りを構え、境内には白山神社・大堂等を擁していた、北本市内屈指の古寺です。
新編武蔵風土記稿による無量寿院の縁起
(別所村)
無量壽院
新義眞言宗、下深井村壽命院末、大雲山大佛寺と號す、當寺及川田谷村泉福寺埼玉郡栢山村光福寺は、右大将賴朝草創の地にして、三寺ともに同時に建立ありし由、今も三大御堂と唱ふといへど、彼の二ヶ寺の此ことを傳へざれば疑べし、猶境内阿彌陀堂の條に辨ぜり、本尊には不動毘沙門を並べ置けり、本堂は文化四年回禄に罹て今假に小堂を建たり、大門の通り路幅五間、長さ百間許、左右に老杉繁茂して、いかにも舊地と見えたり、古は坊中六宇ありしが、今はなし、村内源八が蔵せる慶安三年當寺住僧の書し訴詔状に、六坊の内三坊は退轉して、三坊は存せる由見ゆれば、其頃までは三宇殘りしとみえたり、今は其舊地さへ纔に上にいふ二ヶ所の小名(西方・關戸)のみ殘れり、古より此六坊の勤として年々正月十二日、神願文とて大門入口左右の老杉へしめ縄を引き、中に神符の札を付てこれを掛け、經を讀誦して國家安全の祈禱をなせしと云、今は寺にてこれをおこなへり、
鐘樓。鐘は寛永五年當寺廿五世戒忍の代に鑄造せしを、寶暦五年十一月三十五世慶雄鑄なをせしと、
阿彌陀堂。大門を入て正面にあり、これ右大将建立の堂にて大堂と號す、古の堂は焼失して萬治年中再建ありしが、これも文化四年焼失せしにより、又再建すと、本尊彌陀行基の作なるよし、往古は無量壽院の本堂なりしが、いつの頃にや脇立の不動毘沙門の兩像を遷し、おのづから本堂は別に成しものならんと云、
白山玅理社
大堂に向て右にあり、當村の總鎮守なり、
稲荷社
天王社(新編武蔵風土記稿より)
無量寿院の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」