宮登神社。旧称聖権現、宮前と登戸の頭文字より社号
宮登神社の概要
宮登神社は、鴻巣市宮前にある神社です。宮登神社は、江戸時代には聖権現社と称し、光徳寺を創建した高野僧の源楽(天長2年825年寂)の徳を称えて聖権現(道主貴神)として祀っていたといいます。明治時代に箕田の氷川八幡神社を勧請して、八幡社と改め、村社に列格、明治40年には大字登戸と当地内に鎮座していた六社を当社に合祀、宮前と登戸の頭文字を採り、社号を宮登神社に改めたしたといいます。
社号 | 宮登神社 |
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祭神 | 誉田別命 |
相殿 | 聖権現(道主貴神) |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 鴻巣市宮前88 |
備考 | 宮登古墳 |
宮登神社の由緒
宮登神社は、江戸時代には聖権現社と称し、光徳寺を創建した高野僧の源楽(天長2年825年寂)の徳を称えて聖権現(道主貴神)として祀っていたといいます。明治時代に箕田の氷川八幡神社を勧請して、八幡社と改め、村社に列格、明治40年には大字登戸と当地内に鎮座していた六社を当社に合祀、宮前と登戸の頭文字を採り、社号を宮登神社に改めたしたといいます。
新編武蔵風土記稿による宮登神社の由緒
聖権現社
村の鎮守なり。天長年間紀州高野山の僧当所光徳寺を開基せしゆへ、彼聖を崇てかく祀ると云。光徳寺持。末社に弁天庚申の二社あり。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による宮登神社の由緒
宮前村の村名は、村の西端に鏡座する聖権現社の前に開けた村であったことに由来する。この聖権現社が江戸期の当社の社号であった。
聖権現社の由緒は、『風土記稿』宮前村の神社の項に「聖権現社 村の鎮守なり、天長年間(八二四-三四)紀州高野山の僧当所光徳寺を開基せしゆへ彼聖を崇てかく祀ると云、光徳寺持、末社に弁天庚申の三社あり」とある。この光徳寺は、真言宗聖山不動院と号し、開山の高野聖の僧源楽は、天長二年(八二五)十月二日の示寂とされる。高野聖とは、高野山を本拠として、阿弥陀の真言を唱え、高野山の因縁を語って勧進をしながら回国する下級の僧侶をいうが、その聖を祭神として祀った理由として、当社『明細帳』に「淳和天皇ノ皇子源楽上人ヲ祭り」とあり、源楽上人の貴種流寓による縁を尊んだ村人の心の表れであったようである。ただし、淳和天皇の皇子の中で源楽上人に該当する人物が実在したかは不明な上、別当の光徳寺が火災により旧記を失っているために詳細は不明である。
明治二年、神仏分離政策に伴い、仏教色の強い社号を改めるため、隣接する箕田村の八幡社の分霊を勧請し、八幡社と改称した。併せて祭神の源楽上人を道主貴之神(宗像三女神)に改め、村社となった。更に同四十年、大字登戸と当地内に鎮座していた六社を当社に合祀したことから、宮前と登戸の頭文字を採り、社号を宮登神社に改めた。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
宮登神社所蔵の文化財
- 宮登古墳(鴻巣市指定史跡)
宮登古墳
箕田古墳群中の一基で、荒川に面する大宮台地の西側縁辺部に位置している。
墳丘の保存状態は比較的良好で、直径20m、高さ2m程を有する円墳である。昭和34年に埋葬部の発掘調査が行われており、それによると主体部は、角閃石安山岩を使用した胴張り型横穴式石室で、玄室長2.9m奥壁幅1.3m、高さ1.65mを有する。
玄室内からは、須恵器はそう・鉄鏃・切子玉(水晶製)・管玉・丸玉他が出土しており、これらの遺物から七世紀の前半から中頃かけて築かれた古墳と考えられている。また、埴輪類は認められていないので、埴輪樹立の風習が行われなくなった以後のものであろう。
なお、石室に使われた角閃石安山岩は、群馬県榛名山二ツ岳の爆発によりできた岩石で、利根川流域に分布する。本墳を作った人々は利根川からわざわざこの岩石を運んだものであろう。(鴻巣教育委員会掲示より)
宮登神社の周辺図