氷川八幡神社。渡辺綱勧請、箕田八幡神社、箕田郷郷社
氷川八幡神社の概要
氷川八幡神社は、鴻巣市箕田にある神社です。氷川八幡神社は、箕田八幡神社と通称し、渡辺綱(源綱)が、永延2年(988)当地に八幡宮を勧請して創建したといいます。氷川八幡神社の北側には渡辺綱の祖父箕田武蔵守源仕以来の館があったといい、また鴻巣市八幡田は、氷川八幡神社の神田だったといいます。また境内には、宝暦9年(1759)建立の箕田碑が残されています。明治時代に入り、字龍泉寺の八幡社(浅間社か?)、箕田氷川神社を合併、郷社に列格していました。
社号 | 氷川八幡神社 |
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祭神 | 誉田別命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 鴻巣市箕田2041 |
備考 | 旧箕田郷郷社 |
氷川八幡神社の由緒
氷川八幡神社は渡辺綱(源綱)が、永延2年(988)当地に八幡宮を勧請して創建したといいます。氷川八幡神社の北側には渡辺綱の祖父箕田武蔵守源仕以来の館があったといい、また鴻巣市八幡田は、氷川八幡神社の神田だったといいます。また境内には、宝暦9年(1759)建立の箕田碑が残されています。明治時代に入り、字龍泉寺の八幡社(浅間社か?)、箕田氷川神社を合併、氷川八幡神社と称します。
新編武蔵風土記稿による氷川八幡神社の由緒
八幡社
当社は、渡邊源五綱を祀りしゆへ綱八幡と唱ふと、又綱の守本尊を八幡に祀りし故なりとも云。又禰宜加藤出雲が蔵する文禄4年し記せし箕田系図には、永延2年7月15日源五綱当社、並に諏訪上下明神を箕田郷に勧請すと載たり。何れか実を得たるにや詳ならず。社邊に屋敷跡と云所あり。是を六孫王経基の陣所とも頼義の陣所なりとも云。又箕田武蔵守源仕が居跡なりとも称せり。今按に仕は大納言昇の子にして従五位下に任し箕田武蔵守と称し、其箕田子源次充は武蔵守経基の臣となり、充の子源五綱も当社に住して箕田を名乗しが、後頼光に仕へて摂州渡邊に移りしより、渡邊を氏とせし由前の系図及武家評林等に載たれば、当所を仕か居跡と云こと其ゆへなしとせず。又経基頼義等の陣所と云は、正しき拠なけれど皆武蔵守に任じたる人なれば、古によりてここを陣所となせしも知るべからず。されど今専ら此社邊のみを、其跡なりとするは誤なるべし。廣く近郷にわたりたる構なりしならん。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による氷川八幡神社の由緒
氷川八幡社と箕田源氏
氷川八幡社は明治6年、箕田郷二十七ヶ村の鎮守として崇敬されていた現在地の八幡社に、字龍泉寺にあった八幡社を合祀した神社である。
八幡社は源仕が藤原純友の乱の鎮定後、男山八幡大神を戴いて帰り箕田の地に鎮座したものであり、字八幡田は源仕の孫、渡辺綱が八幡社の為に奉納した神田の地とされている。また氷川社は承平元年(966)六孫王源経基が勧請したものだといわれる。
ここ箕田の地は嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地であり、源仕、源宛、渡辺綱三代が、この地を拠点として活発な活動を展開した土地であった。(境内掲示より)
「埼玉の神社」による氷川八幡神社の由緒
氷川八幡神社(鴻巣市箕田2041箕田字九右衛門)
ここ箕田の地は嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地であり、源仕・源宛・渡辺綱の三代がこの地を拠点として活動を展開したと伝えられる。
『扶桑略記』によると、延喜十九年(九一九)に前武蔵権介源仕が任満ちて後も帰京せずに土着し、国府を襲って武蔵国守高向利春を攻めようとしているとの訴えが中央政府に出された。その結果は明らかでないが、源仕は勢力を維持し続けたらしく、『風土記稿』では箕田に居住して箕田源氏の祖となったとされている。その子宛は『今昔物語集』に、弓馬の術に秀で、家人郎従数百騎を養い、大里郡村岡(熊谷市)にいた平良文と争って勝負がつかなかった話が載っている。宛の子渡辺綱は「松浦系図」によれば「武州箕田」の生まれとされ、源頼光の四天王の一人として勇名をはせ、主君の頼光に付き従って酒呑童子を退治したという説話や、平安京内の一条戻橋で鬼女に襲われたが、逆にその脱を切り落としたという説話は有名である。
当社は明治元年に従来この地に祀っていた八幡社に、字竜泉寺から氷川社を合祀して成立した社である。社地の北方の曹洞宗宝持寺がある辺りが箕田源氏の館跡とされる伝承地で「鞍山」と称し、また宝持寺は渡辺綱が父並びに祖父母の菩提のために開基したと伝えられている。更に、氷川社旧地のすぐ南には「さんし塚」と呼ばれる古墳(今はこの古墳上に氷川社の小祠を祀る)が存在しており、箕田源氏三代を葬ったとも、源仕と宛及びその妻の三人を葬ったとも伝承されている。
明治八年に当社祠官長島稲秋が届け出た「武州足立郡箕田郷遺跡来由」や明治十四年に刻まれた版木刷りの「氷川八幡神社境内図」に所載の縁起などをもとに、当社の由来を述べると次のようになる。
承応五年(九三五)平将門の乱が起こり、天慶三年(九四〇)にその征伐として六孫王源経基が箕田城で軍略をめぐらした。この時に経基の臣下となった源仕は軍功高く、ついに将門を滅ぼした。翌天慶四年(九四一)に仕は経基に従い、藤原純友の乱を鎮定した後、その功績により武蔵の太守に補任された。これを石清水八幡宮の加護として、当国に下る際にその分霊を頂戴し、当地に鋲祭した。その子宛は、武勇の聞こえ高かったが、若くして亡くなった。そのため、宛の子綱は幼くして摂津国の一族に預けられ、後に摂津守頼光に従って英名を世に顕した。その後、永延二年(九八八)に綱は祖父の旧領であるこの地の八幡神社のことごとくを再興し、祭田を寄進した。綱は戦場に赴く際はこの八幡神社に祈誓し常に勝利を得たことから守護神として崇め、同社は一名「綱八幡」と呼ばれるようになった。また、承応年間(九三一-三八)には、経基と仕が相計って氷川神社を当地に鎮祭した。この時、末社に経基と仕を祭神として奉斎した。
一方、『風土記稿』には「八幡社 当社は渡辺源五綱を祀りしゆへ綱八幡と唱ふと、又綱の守本尊を八幡に祀りし故なりとも云、又禰宜加藤出雲が蔵する文禄四年記せし箕田系図には、永延二年七月十五日源五綱当社、並に諏訪上下明神を箕田郷に勧請すと載たり、何れか実を待たるにや詳ならず(以下略)」と渡辺綱とのかかわりで記されており、更に「氷川社 村の鎮守なり、社の後に古塚あり、高さ六七尺幅十二三間、往年土人此塚を穿ちしに、古鏡太刀などの朽腐せしものを得たり、これ古へ貴人を葬埋せし古墳なるべしといへり、村持」とこちらは先の「さんし塚」について詳しく記されている。ほかに地内の竜昌寺には、藤原純友の乱の後、仕が経基からもらい受けた兜の守本尊を持ち帰って祀ったとされる観音堂がある。
八幡神社には、禰宜加藤出雲のほかに、別当として長栄寺がかかわっていた。長栄寺は弁財山と号する真言宗の寺院であったが、明治五年に廃寺となった。その跡地は箕田浄水場の北西辺りで、地蔵尊と板碑が残されているほか、その近くの用水の端にかつて同寺で祀っていた弁天杜が鎮まっていたことから、今もその辺りは「弁天」の地名で呼ばれる。
明治元年の合祀の後、当社は明治六年に郷社となった。更に同四十年には、当時の箕田村の内、箕田・寺谷・市ノ縄・八幡田の四つの大字にあった二〇社を合祀した。
現宮司の宮島家は、氷川神社の元地の南側に住居があることからもわかるように元々は氷川神社の社家で、当主の昭で一五代を数える。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
氷川八幡神社所蔵の文化財
- 箕田碑
氷川八幡神社の周辺図