明用三島神社。鴻巣市指定文化財三島神社古墳上に鎮座
明用三島神社の概要
明用三島神社は、鴻巣市明用にある神社です。明用三島神社の創建年代等は不詳ながら、明用を(万治3年1660年に)開発した鶴間氏がかつては祭主を務めてきたと伝えられることから、鶴間氏が当地を開発した際に勧請したのではないかといいます。江戸期には村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格、明治40年三丁免三島神社(及び境内社)などを合祀しています。当社は主軸長約55m、後円部径約30mの前方後円墳上に鎮座、三島神社古墳として鴻巣市文化財に指定されています。
社号 | 明用三島神社 |
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祭神 | 大山咋命 |
相殿 | - |
境内社 | 三丁免三島神社、道祖神・稲荷、琴平・八坂・天神合殿、塞神二基・天神・伊奈利・八坂など |
祭日 | 夏祭り7月14日、秋祭り11月26日 |
住所 | 鴻巣市明用123 |
備考 | - |
- 明用三島神社参道
- 明用三島神社鳥居
- 明用三島神社社殿
- 境内社三丁免三島神社
- 境内社琴平・八坂・天神合殿
- 境内社道祖神・稲荷
- 境内社塞神二基・天神・伊奈利・八坂など
- 境内社三峰神社(三つの石祠)
- 境内前方部
明用三島神社の由緒
明用三島神社の創建年代等は不詳ながら、明用を(万治3年1660年に)開発した鶴間氏がかつては祭主を務めてきたと伝えられることから、鶴間氏が当地を開発した際に勧請したのではないかといいます。江戸期には村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格、明治40年三丁免三島神社(及び境内社)などを合祀しています。
新編武蔵風土記稿による明用三島神社の由緒
(明用村)
明用村は村民鶴間氏の開墾せし所にて、古は鶴間村と稱せしを何の頃よりか今の如く改めしと、又昔は三町免村も當村にこもりて一村なりしといへり、其地は箕田郷に屬し、(以下省略)
三島社
古塚の上に鎮座す、塚の高一丈餘ばかり、六七間にて横に長し、社に向て左の方に長九尺、幅五尺餘の石片面あらはれてあり、昔村民此石を堀出さんとなせしかば、忽ち祟りを蒙むりしとて、其後は恐れて手を觸る者なしと云、按に此塚は古代墳墓にして、顯れし石は全く石㨯と見えたり、おもふに下總國那須郡國造塚の類にして、郡司などいふものゝ葬地なるべし、又近郷箕田村の古塚も是と同じ形なり、
末社。天王社、稲荷社、天満宮
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第六天社
以上二社觀音寺持、(新編武蔵風土記稿より)
埼玉県神社庁「埼玉の神社」による明用三島神社の由緒
三島神社<吹上町明用一二三(明用字台耕地)>
当地は荒川左岸の低地に位置する。元荒川の自然堤防上に集落があり、その西方の低湿地に水田が広がる。
『風土記稿』によると、当村は鶴間氏の開墾した村で、古くは鶴間村と称し、当初は三町免村も含んでいたが、元禄十二年(一六九九)に分村したという。鶴間家は累代当地の名主を務めた家柄である。
当社は「三島神社古墳」と呼ばれる古墳上に鎮まる。この古墳は町内で最大規模の古墳で、全長五五メートル、後円部径三〇メートルの前方後円墳である。石室は破壊されており、拝殿前などに敷石として利用されている緑泥片岩がこの石室の石材と思われる。
当社は、『明細帳』に「創立不明、同村鶴間弥五右衛門祭主ト古老ノ伝有(以下略)」と載る。恐らく、村の開発に携わった鶴間家により当社は勧請され、以後同家が代々祭主を務めたのであろう。当社は鶴間家から北東二〇〇Mの位置にあり、同家の鬼門除けとして祀られたとも考えられる。
『風土記稿』には、地内の真言宗観音寺が当社の別当であったと記される。同寺は、三島山明星院と号し、箕田村竜珠院の末寺であったが、開基の年代は不詳である。
明治に入り観音寺の管理下から離れた当社は、明治六年に明用村の村社となり、同二十七年に本殿を改築した。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
明用三島神社所蔵の文化財
- 三島神社古墳(鴻巣市指定文化財)
三島神社古墳
元荒川と荒川が分流する地点の自然堤防上に位置する市内最大の古墳え、墳丘主軸をほぼ南北に置き、北側が後円部、南側が前方部と考えられる。墳丘は既に大きく削られ、埋葬施設である横穴式石室は古く破壊されている。石室の石材である緑泥片岩及び凝灰岩質砂岩は、三島神社本殿前の参道及び正面右側に置かれている。
墳丘の規模は、昭和五十八年の周溝確認調査によって主軸長約五十五メートル、後円部径約三十メートルであることが判明し、墳丘及び周溝中から多量の埴輪片(円筒・馬形)が検出された。本古墳の築造年代は横穴式石室、埴輪の特徴から六世紀後半と考えられる。出土した埴輪は、南東六キロメートルに位置する生出塚埴輪窯から供給されたことが明らかになっている。(鴻巣市教育委員会掲示より)
明用三島神社の周辺図