観音寺。鴻巣市指定民俗資料の庚申塔群
観音寺の概要
真言宗豊山派寺院の観音寺は、三嶋山明星院と号します。観音寺は、寛氷18年(1641)に僧円信が開基開山したといい、江戸期には明用三島神社の別当を務めていました。観音寺の庚申塔群は鴻巣市民俗資料に指定されています。
山号 | 三嶋山 |
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院号 | 明星院 |
寺号 | 観音寺 |
本尊 | 不動明王像 |
住所 | 鴻巣市明用458 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
観音寺の縁起
観音寺は、寛氷18年(1641)に僧円信が開基開山したといい、江戸期には明用三島神社の別当を務めていました。
新編武蔵風土記稿による観音寺の縁起
(明用村)
觀音寺
三嶋山明星院と號す、新義眞言宗、箕田村龍珠院末、開山圓信示寂、年代詳ならず、本尊不動を安ず、
聖天社
觀音堂。千手觀音を置り、(新編武蔵風土記稿より)
「吹上町史」による観音寺の縁起
観音寺
三島山明星院と号するこの寺は、新義真言宗豊山派箕田村竜珠院の末寺で県寺院明細帳には「由緒・不詳」と記されている。「開基は僧円信にして、寛氷十八年(一六四一)の建立なりと云」と、『郡村誌』は記しているが、観音寺墓地・境内の調査によると、『郡村誌』のいう開基寛永十八年以前建立と思われる石塔や宝箆印塔が数基現容している。このことをもって観音寺開基の年代と速断することはもちろんできないが、『郡村誌』のいう寛永十八年の開基は妥当のようである。
境内入口の左右には、吹上町指定文化財の六基の庚申塔群(石仏の項参照)・その他馬頭観世音・板石塔婆群などの石造遺物がずらりならんでいるほか、境内には、地蔵尊像・宝塔・五輪塔・聖観音像などがならび、寺の過ぎ去った歴史を語ってくれるかのようである。
墓地右手には、十一面観音を本尊としてまつった観音堂があり、本堂前左手には、元禄年中(一六八八~一七〇四)、三町免村の旧地頭、酒依清左衛門の祈願仏であった歓喜天をまつったという歓喜堂(聖天社)もある。
本尊は、不動明王、木造、寄木造、彩色(青)、けん索なし、玉眼、光背は伽楼羅炎光背、像高四九センチ、江戸後期の作となっている。
明治四十四年再建の本堂は取壊され昭和五十一年改築されて、会合や仏事等の際利用しやすい新様式腰掛式の広間に造られている。(「吹上町史」より)
観音寺所蔵の文化財
- 観音寺の庚申塔群(鴻巣市指定民俗資料)
観音寺の庚申塔群
庚申信仰は三尸説に基づいた庶民信仰で、中国から伝えられた道教がもととなり、次第に仏教や神道と結びついた。室町時代には広く行われ、江戸時代にもっとも盛んになり各地に数多くの庚申講が組織された。
人の体内には三尸の虫(三尸)が住んでいて、庚申の日の夜中に眠っている人の体を抜け出して天帝にその人の罪を告げるという。三尸が体を抜け出して日頃気づかずに犯していた罪を天帝に告げぬよう、庚申の夜は人々が集まって身を清め、経を唱えるなどの「おつとめ」を行い、その間に話や食事をして夜を明かすのが庚申講である。
庚申信仰が廃れるにしたがって各所で祀られていた庚申塔は、地域の寺などに集められるようになった。この観音寺の庚申塔群もそのひとつである。寛文三年の銘が彫られた庚申塔が、この中ではもっとも古いものである。
参考:寛文三年(一六六三)(鴻巣市教育委員会掲示より)
観音寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「吹上町史」