勝龍寺。勝願寺中興2世の不残和尚が中興開山
勝龍寺の概要
浄土宗寺院の勝龍寺は、吹上山寶光院と号します。勝龍寺の創建年代は不詳ですが、勝願寺中興2世の不残和尚(元和2年1616年)が中興開山したと伝えられます。慶長年間(1596-1614)に寺領8石の御朱印状を拝領していました。
山号 | 吹上山 |
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院号 | 寶光院 |
寺号 | 勝龍寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 鴻巣市吹上本町2-10-29 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
勝龍寺の縁起
勝龍寺の創建年代は不詳ですが、勝願寺中興2世の不残和尚(元和2年1616年)が中興開山したと伝えられます。慶長年間(1596-1614)に寺領8石の御朱印状を拝領していました。
新編武蔵風土記稿による勝龍寺の縁起
浄土宗、鴻巣宿勝願寺末、吹上山寶光院と号す。古は水精山と書せし由、改めし年代は知らず、慶長年中寺領8石の御朱印を賜ふ。開山は不残和尚と云。本寺中興の僧にて、元和2年9月3日示寂す。本尊弥陀を安ぜり。
鐘楼、鐘は近き頃鋳造せしものなり。
仁王門、楼門にて上に千手観音を安ぜり。(新編武蔵風土記稿より)
「吹上町史」による勝龍寺の縁起
勝竜寺
東曜寺の上寺に対し、勝竜寺は下寺と呼ばれている。浄土宗鴻巣宿勝願寺末、『吹上山宝光院ト号ス、古ハ水精山ト書セシ由其改メシ年代ハ知ラス、慶長年中(一五九六~一六一四)寺領八石ノ櫛朱印ヲ賜フ、開山ハ不残和尚ト云。本寺中興ノ僧ニテ元和二年(一六一五)九月三日一示寂ス。』と風土記稿は記している。不残和尚は徳川家帰依の高僧で、勝願寺を隠退して勝竜寺を創立したという。勝願寺の隠居寺で末寺の最高位におかれた寺であった。江戸時代の勝竜寺は、御朱印寺として格式も高く、仁王門までの参道は松の大木、老杉がうっそうと茂り、本堂は間口七間奥行八間総欅造りで庫裡は結城家の書院であったという大建築で、境内には加賀前田侯お小休み所の「加賀座敷」という建物もあり中庭には加賀松という大木もあったといい、仁王門は草葺二階造の楼門で楼上には観世音像が安置されていた。鐘楼には時の鐘があった(宮沢蔵「人生之行路」)。わずかに残された仁王門鐘楼も取壊され、現在昔の姿は見るべくもない。当時、江戸大阪あたりでさえ時の鐘はすくなかったのに、城下町でもないこの間の宿吹上に、時の鐘が勝竜寺の鐘楼から流れたということは、土地の人はもとより旅する人にとっても大きな恩恵であり喜びであったろう。第二次大戦中に時の鐘は供出となってその響きは聞かれなくなった。
本尊は、来迎形の阿弥陀如来像で、江戸中期作で木造、寄木造、漆箔(木像素地に麻布をはりこの上に漆をぬり金箔を置く技法)、玉眼、偏袒右肩(右肩をぬいだ姿)、総高一三〇・八センチ、像高五四・四センチ、雲光背八一センチ、脇侍の勢至、観音菩薩は両像とも木造寄木造りとなっている。
明治九年東曜寺焼失後、吹上学校はこの勝竜寺に移転をした。明治三十一年(一八九八)七月九日、堂下に宿った乞食の蚊やり火によって出火、本堂は炎上焼失したというが、県文書館所蔵の寺院明細帳によると、明治三十五年(一九〇二)八月二十日に仮本堂が落成している。近年鉄筋コンクリート造りの現代的な本堂が完成された。(「吹上町史」より)
勝龍寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「吹上町史」