箕田観音堂。鴻巣市箕田にある寺院

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箕田観音堂。源経基公の守り本尊、渡辺綱公開基、忍領三十三所

箕田観音堂の概要

寺院の箕田観音堂は、吹張山平等寺と号していた寺院の観音堂です。箕田観音堂は、大間(伝源経基館)を拠点としていた六孫王源経基公が守り本尊としていた馬頭観世音像が、子の源仕・孫の渡辺綱へと伝えられ、渡辺綱公が永延元年(987)当地に奉安したといいます。この観音堂を別当として吹張山平等寺が創建され、平等寺は宇治平等院に倣った大堂だったともいいますが、江戸期には僅かな小庵だったようで、明治維新後廃寺となり、現在は観音堂のみが残され、龍珠院が管理しています。忍領三十三所7番です。

箕田観音堂
箕田観音堂の概要
山号 -
院号 -
寺号 -
本尊 馬頭観音像
住所 鴻巣市箕田3818-1
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



箕田観音堂の縁起

箕田観音堂は、大間(伝源経基館)を拠点としていた六孫王源経基公が守り本尊としていた馬頭観世音像が、子の源仕・孫の渡辺綱へと伝えられ、渡辺綱公が永延元年(987)当地に奉安したといいます。この観音堂を別当として吹張山平等寺が創建され、平等寺は宇治平等院に倣った大堂だったともいいますが、江戸期には僅かな小庵だったようで、明治維新後廃寺となり、現在は観音堂のみが残され、龍珠院が管理しています。

新編武蔵風土記稿による箕田観音堂の縁起

(箕田村)
平等寺
吹張山と号す。龍珠院の門徒なり。今寺地ばかりにて堂宇もなく、供僧は後に出す觀音堂の傍に小庵を作りて住す。
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觀音堂
本尊は源頼由守護佛なりしと云。秘して見ることを許さず、土人の話に此堂に六十年前までは、保安元年の銘文ある鰐口を掛たりしが、後回禄にかかりしとき失ひたりと云。平等寺の持なり。(新編武蔵風土記稿より)

境内石碑による箕田観音堂の縁起

観音堂新築記念碑
当箕田観世音は、今を去る一千有余年前、平安時代中期の武将渡辺綱公を開祖とする由緒ある馬頭観世音である。
この馬頭観世音は六孫王と言われた源經基公が戦の折りに兜の中に頂いて出陣した一寸八分の尊像である。
承平の頃、經基公が大間の箕田城に在城の折ある夜不思議な霊夢を見て、箕田の源仕公に譲りくだされた。
箕田の仕公は、周囲の征夷を行なった功績により武蔵の守に任ぜられたが、これは他ならぬ観世音の「怖畏軍陣中 念被観音力 衆恐悉退散」の御加護の賜である。
それより、源仕公から源充へ源充公から渡辺公にと相伝えられ渡辺綱公がこの地に安置されたものである。時正に永延元年(西暦九八七年)の事であった。それ故に当観世音を「渡辺綱守本尊」と称し奉った。
また、当観世音は別当真言宗吹張山平等寺でもある。
この寺は宇治の「平等院」をここに移し「吹張山圓通殿」の別所と称したものである。
当観音堂舎は、従来は大堂であったが明治五年二月二日の火災により焼失し、同年直ちに同地内の別当平等寺を引き直し本堂として修復工事を行ったものである。また旧来より言伝えられていた一寸八分の尊像もこの度の本堂解体工事の際に無事見出され百数十余年振りにその御姿を現しになった。
更に、当観世音は忍領三十三観音霊場の七番観音に当り元禄の頃より巡礼者も多く賑わったと伝えられている。
数百有余年の風雪に耐えた本堂も老朽化が進み、この度「開山一千年の記念事業」として、信徒の総意に基づきここに本堂の改築を行なったものである。
この大事業が無事完成を見たのも、観世音菩薩の広大無辺なる御加護と共に信徒各位の熱意溢れる信仰心の賜であり、ここに信徒各位の一層の御多幸、御繁栄を至心に祈願してこれを永代に残すものである。(境内石碑より)


箕田観音堂の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「吹上町史」