上七左稲荷神社。越谷市七左町の神社

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上七左稲荷神社。越谷市七左町の神社

上七左稲荷神社の概要

上七左稲荷神社は、越谷市七左町にある稲荷神社です。上七左稲荷神社の創建年代は不詳ながら、元和2年(1616)に創建した観照院の境内社だったということから、元和2年(1616)前後の創建と考えられます。大正15年に字寺裏の天神社字宮川前の日枝神社字新川前の大沼社の無格社三社を合祀、昭和20年村社に列格したといいます。

上七左稲荷神社
上七左稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 倉稲魂命
合祀 -
境内社 八坂神社、鷲神社
祭日 -
住所 越谷市七左町7-286
備考 旧村社



上七左稲荷神社の由緒

上七左稲荷神社の創建年代は不詳ながら、元和2年(1616)に創建した観照院の境内社だったということから、元和2年(1616)前後の創建と考えられます。大正15年に字寺裏の天神社字宮川前の日枝神社字新川前の大沼社の無格社三社を合祀、昭和20年村社に列格したといいます。

新編武蔵風土記稿による上七左稲荷神社の由緒

(七左衛門村観照院項)稲荷社。
此末社として、天神・疱瘡神の二社を置。
観音堂。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による上七左稲荷神社の由緒

稲荷神社(七左町7-286七左衛門字寺裏)
当地は出羽堀と綾瀬川との間に広がる低湿地に位置する。村の開発については、天和三年の「神明縁起」(会田家文書)によると、会田七左衛門政重は関東郡代伊奈氏の下で代官を務め、元和年間(一六一五-二四)からこの辺りの新田開発を行い、伊奈氏からその労を賞されて七左衛門新田と名付けられたという。その後も開発が進み、正保年間(一六四四-四八)には槐戸新田と呼ばれていたことが『田園簿』に記されている。更に、元禄十五年(一七〇二)の『元禄郷帳』には「古は槐戸村」と記された七左衛門村と同村から分かれた大間野・越巻もそれぞれ独立した一村として扱われている。
当村は上組・下組に分かれているが、口碑によると開発は上組が先に行われたとされる。、当社は、その上組の鎮守で、『風土記稿』には会田七左衛門の開基となる真言宗観照院の境内社として見える。
本殿に奉安される神鏡には、「元禄五壬申年(一六九二)四月吉祥日 開眼供養法印一道」と記されており、七左衛門村の成立期と一致する。ほかに、享保三年(一七一八)に神祇管領吉田家から正一位の神位に叙せられた際の宗源宣旨・宗源祝詞などが納められている。
明治初年の神仏分離により当社は別当観照院から離れ、無格社とされた。大正十五年には、字寺裏の天神社字宮川前の日枝神社字新川前の大沼社の無格社三社を合祀し、昭和二十年に至り村社に列した。(「埼玉の神社」より)


上七左稲荷神社の周辺図