旧東養寺。西新井組中川通四箇領八十八箇所
旧東養寺の概要
旧東養寺は、利劔山と号していた寺院で現在は廃寺となっています。東養寺の創建年代は不詳ですが、稲荷山金剛寺の末寺であったといいます。明治維新後廃寺となり、現在千疋南農村センターとなっています。境内は墓域となっていますが、廿一仏板石塔婆が残されています。西新井組中川通四箇領八十八箇所64番となっていました。
山号 | 利劔山 |
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院号 | - |
寺号 | 東養寺 |
住所 | 越谷市東町5-242千疋南農村センター |
宗派 | |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
旧東養寺の縁起
東養寺の創建年代は不詳ですが、稲荷山金剛寺の末寺であったといいます。明治維新後廃寺となり、現在千疋南農村センターとなっています。
新編武蔵風土記稿による東養寺の縁起
(千匹村)東養寺
新義真言宗、別府村慈眼寺(註:現稲荷山金剛寺)の末、利劔山と號す、本尊阿弥陀。
氷川社(新編武蔵風土記稿より)
東養寺所蔵の文化財
- 天正三年(一五七五)十二月銘の廿一仏板石塔婆
- 元禄七年(一六九四)十月銘の青面金剛彫像庚申塔
廿一仏板石塔婆
廿一仏とは、比叡山に奉祀する「上七社」、「中七社」、「下七社」の山王廿一社の本地仏のことで、平安時代に天台宗の信徒たちによって唐の天台山の地主山王にならい比叡山の守護神として祀られたことに始まると伝えられている。
このような山王信仰を表した廿一仏板碑は、現在越谷市内で八基確認されている。この東養寺境内の勢至堂の廿一仏板碑は天正三年(一五七五)在銘のもので、高さ百三十二センチメートル、厚さ五センチメートルで、完全な形で保存されている貴重なものである。(埼玉県・越谷市掲示より)
旧東養寺の周辺図