金剛寺。慈眼寺に妙音院、東眼寺を合寺して改号
金剛寺の概要
真言宗豊山派寺院の金剛寺は、稲荷山と号します。金剛寺の創建年代は不詳ですが、奥州旧街道に面した古寺の一寺だといい、江戸期までは稲荷山慈眼寺と号していたといいます。明治期に四条村妙音院や三輪野江村の東眼寺を合併し金剛寺と改号したといいます。西新井組中川通四箇領八十八箇所62番、63番です。
山号 | 稲荷山 |
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院号 | - |
寺号 | 金剛寺 |
本尊 | 正観音像 |
住所 | 越谷市東町3-354 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
金剛寺の縁起
金剛寺の創建年代は不詳ですが、奥州旧街道に面した古寺の一寺だといい、江戸期までは稲荷山慈眼寺と号していたといいます。明治期に四条村妙音院や三輪野江村の東眼寺を合併し金剛寺と改号したといいます。
埼玉県・越谷市掲示による金剛寺の縁起
金剛寺は、真言宗の寺で山号を稲荷山慈眼寺と称し、中川をひかえた奥州旧街道筋の古寺の一つである。本尊は正観音菩薩である。明治期に四条村妙音院や三輪野江村の東眼寺を合併し金剛寺と改名したといわれている。
当寺には嘉吉二年(一四四二)在銘の弥陀三尊板碑、文明十年(一四七八)在銘の弥陀一尊板碑がある。また、下総國名都借村清瀧院天文十八年(一五四九)の印信血脈、その他江戸時代の寺檀関係古文書が多数保存されている。境内の太子堂には、もと隣村四条村真言宗妙音院に祀られていた首だけの太子像(胎内仏)が納められている。「新編武蔵風土記稿」によれば、江戸時代この太子像はことに霊験あらたかということで、千住宿に移し衆人の信仰を集めたが、その頃、千住宿や四条村の住民が病災にかかることが多くなったため、千住に移したのは神慮にかなわぬことであったと覚り、再び四条村に戻したと記されている。
また金剛寺の裏手の畑地には小さな塚があるが、ここには寛文二年(一六六二)十月銘の二童子が刻まれた文字庚申塔がある。(埼玉県・越谷市掲示より)
新編武蔵風土記稿による金剛寺の縁起
(別府村)慈眼寺
新義真言宗、下総國葛飾郡名都借村清瀧院末、稲荷山観音院寳蔵坊と云ふ、開山善幸天文十八年八月十五日示寂す、本尊は正観音を安置せり。
稲荷社。(新編武蔵風土記稿より)
金剛寺の周辺図