大聖寺。大相模不動尊、天平勝宝二年開基、武蔵国八十八ヶ所霊場
大聖寺の概要
真言宗豊山派寺院の大聖寺は、真大山と号し、大相模不動尊として著名です。大聖寺は、不動坊が、良弁僧正自作の不動明王像を祀って天平勝宝二年(750)開基したといい、中世には不動院と称して岩槻城主太田資正や北条氏繁らの尊信を受けていたといいます。天正19年(1591)徳川家康が当寺に投宿、寺領60石の御朱印状を拝領、大聖寺と改号したといいます。大聖寺の山門や徳川家康の夜具など数多くの文化財を所蔵しています。武蔵国八十八ヶ所霊場26番です。
山号 | 真大山 |
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院号 | - |
寺号 | 大聖寺 |
本尊 | 不動明王像 |
住所 | 越谷市相模町6-442 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
大聖寺の縁起
大聖寺は、不動坊が、良弁僧正自作の不動明王像を祀って天平勝宝二年(750)開基したといい、中世には不動院と称して岩槻城主太田資正や北条氏繁らの尊信を受けていたといいます。天正19年(1591)徳川家康が当寺に投宿、寺領60石の御朱印状を拝領、大聖寺と改号したといいます。
埼玉県・越谷市掲示による大聖寺の縁起
大相模不動尊大聖寺
大聖寺は、真言宗豊山派の寺で、山号を真大山といい、本尊は不動明王である。
寺伝によると、天平勝宝二年(七五〇)に不動坊が、奈良東大寺の開山で知られる良弁僧正自作の不動明王像を祀って造立した一宇が、開基とされている。中世には不動院と称し、岩槻城主太田資正や北条氏繁の尊信を受けて栄え、天正十九年(一五九一)に当寺に泊った徳川家康から寺領六十石を賜り、このとき現寺名である大聖寺に改めたといわれる。また、慶長五年(一六〇〇)には、家康が下野小山(栃木県小山市)から引き返して関ヶ原へ向う途中、戦勝を祈願して太刀一振を寄進したことが寺伝にみられる。
境内入口の山門は、文化元年(一八〇四)に再建されたもので、明治二十八年の火災の際焼け残った唯一の建造物である。なお、山門に掲げられてある「真大山」の山額は、寛政(一七八九〜一八〇二)の改革で名高い老中松平定信(白河楽翁)の筆といわれている。
このほか、寺宝として、元亀三年(一五七二)に北条氏繁が岩槻城の繁栄祈願を命じた文書や、家康が宿泊の際に使用したという寝具などが残されている。(埼玉県・越谷市掲示より)
新編武蔵風土記稿による大聖寺の縁起
(西方村)不動堂
縁起の略に、往古良辨僧正相州大山開闢の時面のあたり、不動の霊容を拝し、其尊像を刻まんとて、先其木の根本をもて一刀三禮し、一像を彫刻し、是を大山根本不動と名付く、大聖寺開山の僧不動坊といへる者、夢の告に任せ、彼像を負出て當所に来りけるが、俄に笈重くなりければ、是こそ有縁の地ならんとて、遂に當山に安置せり、よりて山を真大と號し、地を大相模と稱し、且其不動坊又不動院といひ僧俗の尊崇斜ならず、天正十八年東照宮御入圀あり、大聖寺の住侶定傳といへるもの高徳たるにより、御帰依浅からず、同き十九年寺領六十石を賜はり、慶長五年下野小山御帰陣の砌、當地へ御渡あり、関ヶ原御陣の御願を懸られ、御太刀を納させ賜ひしが、御利運の日に當り、著しき霊験ありければ、是より世の人彌崇敬し、毎年正五九月には會式を興行すと見えたり、此餘さまざまの事を書綴れど、妄誕に亘れば取らず、本尊良辨の作は一尺七寸許の立像なる由、秘佛として人に示さず、前に智證の刻める一尺三寸の立像を安ぜり。
仁王門。門外に寛保四年の制札を立り。
二天門。持圀・毘沙門の二像を安ず。
裏門。真大山の額をかかぐ。
経堂。
鐘楼。明和三年鋳造の鐘をかく。
東照宮御宮。昔は御太刀を御神體とせしが、延宝六年御木像を安置し奉ると云、其時記せしものあり。
天神社。愛宕社、辨天社。秋葉社。太子堂。地蔵堂。
別当大聖寺
新義真言宗、京都醍醐三寳院の末、真大山と號す、開山僧不動坊中興開基定傳、後柿木村東漸院に隠棲せりと云、共に寂年をつたへず。
什寳。
御太刀一。前の縁起にいへつ御太刀なりと云。長一尺八寸五分白鞘なり。
塔頭。
利生院。本尊十一面観音を安ず。
道照庵。今廃す。(新編武蔵風土記稿より)
大聖寺所蔵の文化財
- 大聖寺の山門(越谷市指定有形文化財)
- 徳川家康の夜具(越谷市指定有形文化財)
- 北条氏繁の定状(越谷市指定有形文化財)
- タブグスの木(越谷市指定有形文化財)
大聖寺の山門
「大相模の不動様」で親しまれている真大山大聖寺は天平勝宝二年(七五〇)の創建といわれ本尊は不動明王である。古くは「不動坊」といわれ天正十九年(一五九一)徳川家康公遊猟の折、当寺に立寄り、水田六〇石を与えて「大聖寺」と号した。
山門は正徳五年(一七一五)に建立した茅葺き屋根であったが文化元年(一八〇四)瓦葺きとなり、その後破損、明治十七年修繕して銅板葺きが完成し今日に至っている。この山門は鎌倉風建築といわれ正面左右には「阿吽の二王」といわれる一対の仁王尊がある。正面額字「真大山」は寛政時代の老中松平定信の筆である。(越谷市教育委員会掲示より)
徳川家康の夜具
天正十八年(一五九〇)関東に入国した徳川家康は、領国統治のため鷹狩りをしながら巡遊した。
はじめ家康の休泊所は、在地の土豪層や寺社がこれにあてられたが、のちに御殿やお茶屋が取立てられていった。大聖寺の家康垢付の寝具は、まだ御殿やお茶屋が設置される以前、家康が大聖寺に宿泊したときその宿泊接待の御礼として置いていったものとみられる。
この寝衣は絹地で、菊を配した柄のほか徳川の紋である三ツ葉葵が所々に配されている。(越谷市教育委員会掲示より)
大聖寺の周辺図