佐谷田神社。八幡社に神明社・他国社を合祀
佐谷田神社の概要
佐谷田神社は、熊谷市佐谷田にある浅間神社です。佐谷田神社は、佐谷田の八幡社に、明治40年に戸出の神明社、大正2年に平戸の他国社を合祀、佐谷田神社と改称したといいます。
社号 | 佐谷田神社 |
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祭神 | - |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷、弁財天、三峰、琴平、八坂、天神、浅間、小御嶽、塞神 |
祭日 | - |
住所 | 熊谷市佐谷田310 |
備考 | - |
佐谷田神社の由緒
佐谷田神社は、佐谷田の八幡社に、明治40年に戸出の神明社、大正2年に平戸の他国社を合祀、佐谷田神社と改称したといいます。
新編武蔵風土記稿による佐谷田神社の由緒
(佐谷田村)
八幡社。村の鎮守永福寺持
(平戸村)
他國明神社。村の鎮守なり。祭神詳ならず、或云住吉を祀りし社なりと云。超願寺持
(戸出村)
神明社。社領7石の御朱印を賜へり。別当金錫寺(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による佐谷田神社の由緒
佐谷田神社<熊谷市佐谷田三一〇(佐谷田字不動堂)>
明治二十二年に佐谷田と戸出と平戸が合併して佐谷田村となった。この合併に伴い、佐谷田の八幡社に、明治四十年に戸出の神明社、大正二年に平戸の他国社を合祀して成立したのが、佐谷田神社である。
佐谷田の八幡社は『風土記稿』に「八幡社村の鎮守、永福寺持」と記され、『大里郡神社誌』には享保七年(一七二二)三月十一日に宗源宣旨を受け、正一位になったことや、寛政五年(一七九三)に伯家に願い出て八幡宮の神号を受けた時の添え状の記事がある。ただし現在では、この宣旨や添え状は残念ながら確認できない。
一方、戸出の神明社は、『風土記稿』に「神明社 社領七石森の朱印を賜へり、別当金錫寺 新義真言宗」とある神社であるが、七石の社領を明治初めに上地されて以来零落し、県行政文書によれば、明治三十二年に、時の社掌杉浦正太郎は内務大臣・農商務大臣に上地林を下げ戻しの上、境内に編入することを嘆願している。しかし、この嘆願により調査を行った東京大林区署長島田剛太郎の「該神社は、村社なるも全く荒廃に任せ、神体は唯御幣のみ存するの状況、殆ど無格社に劣る」との報告に、上地林の下げ戻しは実現しなかった。
平戸の他国社は『風土記稿』に「他国明神社 村の鎮守なり、祭神詳ならず、或云住吉を祀りし社なりと云、超願寺持」と載り、口碑に「長崎平戸の神を祀り他国という」と伝え、戦後旧地に戻っている。(「埼玉の神社」より)
佐谷田神社の周辺図