横堀御嶽神社。横堀村の鎮守社、江戸川八十八ヶ所霊場
横堀御嶽神社の概要
横堀御嶽神社は、三郷市新和にある神社です。横堀御嶽神社の創建年代は不詳ですが、水防稲荷を元禄年間(1688-1704)に合祀、稲荷社と呼ばれていたといい、江戸時代初期には横堀村の鎮守社であったといいます。明治5年村社に列格、明治42年には字新川堤添の荒神社及び当社の境内社であった水神社と福富神社を合祀しています。境内の大師堂は、江戸川八十八ヶ所霊場20番です。
社号 | 御嶽神社 |
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祭神 | 日本武尊、国常立尊、稲倉魂命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 例大祭10月18日 |
住所 | 三郷市新和4-617 |
備考 | - |
横堀御嶽神社の由緒
横堀御嶽神社の創建年代は不詳ですが、水防稲荷を元禄年間(1688-1704)に合祀、稲荷社と呼ばれていたといい、江戸時代初期には横堀村の鎮守社であったといいます。明治5年村社に列格、明治42年には字新川堤添の荒神社及び当社の境内社であった水神社と福富神社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による横堀御嶽神社の由緒
(横堀村)
稲荷社
村の鎮守なり、東福寺持
東福寺
新義真言宗、戸ケ崎村西福寺門徒、如意山寳珠院と號す、本尊地蔵(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による横堀御嶽神社の由緒
御嶽神社
伝説によれば、昔、田の中から舟形の石が出てきたので、不審に思った村人がこの石をよく見てみると「御嶽神社」と文字が刻んであったため、さっそく盛り土をしてその石を祀ったのが当社の始まりとされている。しかし、この舟形の石は、昭和の初めに紛失しておりへ現在、内陣には祭神である日本武尊の像が納められている。
右の話に見える当社の年代は不明であるが、社記に、慶長十年(一六〇五)ごろ創建された水防稲荷と称する社を、元禄年間(一六八八-一七〇四)に当社に合祀したとの記事があることから、少なくとも江戸時代の初期には横堀の鎮守として奉斎されていたと推察される。ただし、『風土記稿』横堀村の項には「稲荷社、村の鎮守なり、東福寺の持」とあり、他の神社の記載がないのは、この合祀によって、当社が一時「稲荷社」と称していたものであろうか。なお、明治三年の改築と伝える本殿は三間社洗造りで、御嶽・稲荷の三社と共に神明社を併せ祀っているが、この神明社の由緒は伝えられていない。
明治になると、小澤山城平宣安が神職となって東福寺の管理を離れ、明治五年に村社となる。更に、同四十二年二月には、字新川堤添の荒神社及び当社の境内社であった水神社と福富神社を合祀した。その後、江戸川の改修に伴い、昭和三十三年、同二十八年の二度の境内地移転を経て現在に至っている。(「埼玉の神社」より)
境内掲示による横堀御嶽神社の由緒
横堀御嶽神社由緒
伝説によれば、昔、田の中から出てきた、「御嶽神社」と文字の刻まれた舟形の石を、村人が盛土してお祀りしたのが当社の始まりとされ、その年代は不明です。
当地は、低地帯のため水害が多く、悩んだ村人は川を鎮めようと慶長十年(一六〇五)頃、江戸川堤防上に「水防稲荷・水神宮」の石祠を建てて信仰していましたが、元禄年間(一六八八ー一七〇四)当社に合祀したとの社記があり、少なくとも江戸時代の初期には、横堀の鎮守として奉斎されていたと推察されます。「風土記稿」横堀村の項に、「稲荷社 村の鎮守なり、東福寺の持」とあることから、東福寺の管理で、一時期「稲荷社」と称していたとも考えられますが、明治になって小澤山城守平宣安氏が神職となり、東福寺の管理を離れて、明治五年、村社御嶽神社となりました。(東福寺は神佛分離の後、明治八年廃寺となりました。)
現在の社殿は三間社流造りで、明治三年、二十七戸の氏子によって、新たに造営されたものです。明治四十三年四月、埼玉県知事の許可を得て、無格社荒神社が合祀されましたが、当時当社の境内は弐百拾参坪、不動産田反別壱反六畝廿歩を所有し、社殿より埼玉県庁迄の距離八里五町と記録されています。
昭和三十三年、江戸川の改修に伴ない、境内地を移転しましたが、昭和四十七年、故あって、現在地に再度の移転をされました。昭和六十三年十月、瓦葺きであった本殿・拝殿の屋根を、銅板で葺き替え改装し、現在に至っております。
なお、横堀の地名について、文献によれば、鎌倉時代、長戸呂氏の家臣横川氏が開拓を行った際、堀を造ったことに由来する説と、江戸初期に当地を開発した伊奈半十郎の臣、横堀某の名にちなんだとの説がありますが、現時点では、どちらが正しいか判断がつかないとされています。
御嶽神社のご神徳は普く、中でも、病気平癒にはあらたかなご利益があるとされ、古くからお百度・塩断ち・酒断ち等の願をかける人が少なくなく、氏子の守り神として信仰されております。(境内掲示より)
廃寺となった境内横の東福寺について
真言宗豊山派寺院の東福寺は、如意山寳珠院と号します。東福寺の創建年代は不詳ですが、戸ケ崎村西福寺の門徒寺として創建、明治6年(1873)廃寺となったといいます。江戸川八十八ヵ所霊場20番、新田組12番であった大師堂が残されています。
墓地聖地記念碑この横堀東福寺は、如意山寳珠院東福寺と号し、戸ケ崎村西福寺の門徒寺として元禄年間頃に建立された寺院といわれています。江戸幕府は元和元年(一六一五)に仏教諸宗派の大本寺に対して「寺院法度」を発布して、本寺・末寺制度の整備を進めました。ここ横堀東福寺における本末関係は、山城国(現京都府南部)新義真言宗醍醐三宝院を大本山に、その本末寺関係の寺院に上小松村(現東京都葛飾区)正福寺、戸ケ崎村(現三郷市)西福寺があり、横堀東福寺は戸ケ崎村西福寺の門徒寺として建立されました。
その後、明治六年(一八七三)六月に明治新政府の神仏分離政策によって、横堀東福寺は無住のため廃寺を余儀なくされ、また昭和三十三年(一九五八)には、千葉県とも境を流れる江戸川の河川改修にともない、共同墓地として使用するため土地交換、墓地区分、登記等に約二ヶ年の歳月をかけ、二度の移転を経て昭和四十七年(一九七二)に本堂、墓地、御嶽神社等の区画を整え、現在地に移転いたしました。
昭和五十年代半ばに念仏講が消滅したため、昭和六十一年(一九八六)に今は亡き内田留吉氏を中心に横堀東福寺護持会を設立し、以来、年中行事として一月、八月のおえん様、四月の花まつり、春秋彼岸とお盆のお線香付け等を行っています。
さらに平成八年(一九九六)一月五日には、横堀東福寺本尊の地蔵菩薩立像が三郷市教育委員会より指定文化財に認定されました。
こうした足跡を後世に伝えていくため、護持会会員の総意を結集し、ここに横堀東福寺墓地整理記念碑を建立いたしました。(境内石碑よより)
横堀御嶽神社所蔵の文化財
- 地蔵菩薩立像(三郷市指定文化財)
横堀御嶽神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」