徳島稲荷神社。真崎稲荷大明神を勧請、徳島村の鎮守
徳島稲荷神社の概要
徳島稲荷神社は、三郷市鷹野にある神社です。徳島稲荷神社の創建年代等は不詳ですが、真崎稲荷大明神(註:現石浜神社)から白狐が飛来、小向村の日蓮宗大雄寺住職の袂に入り、徳島村の鎮守として祀って欲しいとのお告げにより当社を創祀したといいます。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 三郷市鷹野1-217-2 |
備考 | - |
徳島稲荷神社の由緒
徳島稲荷神社の創建年代等は不詳ですが、真崎稲荷大明神(註:現石浜神社)から白狐が飛来、小向村の日蓮宗大雄寺住職の袂に入り、徳島村の鎮守として祀って欲しいとのお告げにより当社を創祀したといいます。
新編武蔵風土記稿による徳島稲荷神社の由緒
(徳島村)稲荷社
村の鎮守なり、小向村大雄寺持(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による徳島稲荷神社の由緒
徳島稲荷神社
地名の徳島は、江戸初期に当地に堀割を築き、開拓に貢献した徳島屋久太夫秀典にちなむもので、彼が築いた堀は、その功績をたたえて秀典堀と名付探られている。当社の境内には彼の墓石が残っている。
当社の創建は、天保十三年(一八四二)に書かれた「鎮守稲荷大明神御身躰再建寄進帳」によると下総国の真崎稲荷大明神(註:現石浜神社)から白狐が飛来し、小向村の日蓮宗大雄寺住職の袂に入り、徳島村の鎮守として祀って欲しいと告げたことから、一社を建立したと伝えている。
更に、同書には、その後、神体を紛失してしまったため、天保十三年に新調し、当社の別当を務めていた大雄寺の住職により、開眼法要が行われた旨が記されている。現在、内陣に奉安されている茶枳尼天像は、この折のものと思われ、全高二六センチメートルの白木製一木造りである。
当社は、合祀や移転により、複雑な経緯をたどってきた。まず、明治四十五年、合祀政策により、大字長戸呂に鎮座する天豊受神社に合祀された。ただし、この合祀は、神体を移したのみで、社殿は旧地に留め、祭典も引き続き行っていた。次いで大正四年、神社の東側を流れる江戸川の河川改修に伴い、字落堀東大道南から落城西大道南に移転した。また、昭和七年、氏子の熱意により、念願であった天豊受神社から神体の返還を受け、更に同四十年、境内が狭いことから現在地への移転が行われ今日に至っている。(「埼玉の神社」より)
徳島稲荷神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」