白子熊野神社。和光市白子の神社

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白子熊野神社。滝不動と共に中世より祀られてきた社

白子熊野神社の概要

白子熊野神社は、和光市白子にある熊野神社です。白子熊野神社の創建年代は不詳ですが、那智熊野大社の「米良文書」に「しらこ庄賀助、庄中務丞」とあることから中世には祀られていたのではないかといいます。滝不動とともに崇敬を集め、江戸時代には白子村の鎮守社とされ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格していました。

白子熊野神社
白子熊野神社の概要
社号 熊野神社
祭神 伊弉冉尊、建御名方命、速須佐男命、速玉男命、事解男命、倉稲魂命
相殿 -
境内社 富士嶽神社、国平神社
祭日 熊手市12月7日、熊野神社祭10月第1日曜日
住所 和光市白子2-15
備考 旧村社



白子熊野神社の由緒

白子熊野神社の創建年代は不詳ですが、那智熊野大社の「米良文書」に「しらこ庄賀助、庄中務丞」とあることから中世には祀られていたのではないかといいます。滝不動とともに崇敬を集め、江戸時代には白子村の鎮守社とされ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による白子熊野神社の由緒

(下白子村)
熊野宮
瀧の側にあり、村の鎮守なり。本社一間に九尺、上屋は二間に三間、前に鳥居を建つ、鎮座の年歴詳ならず。
稲荷社
熊野宮の左にある小祠なり。(新編武蔵風土記稿より)

埼玉県・和光市掲示による白子熊野神社の由緒

熊野神社は、白子の鎮守さまとして栄えてきた。発祥は不明であるが、社伝によると、およそ一千年前といわれている。
祭神は、伊弉冉尊、建御名方命、速須佐男命、速玉男命、事解男命、倉稲魂命とされ、また、境内神社として、富士嶽神社、国平神社がある。
中世、熊野信仰は、全国的に武士や民衆の間に広まった。熊野那智大社(和歌山県)に伝わる「米良文書」の中の「武蔵国檀那書立写」には、多くの武蔵武士とともに「しらこ庄賀助、庄中務丞」の名があり、和光市域の白子に居住していた領主にも、熊野信仰が伝えられていたことがわかる。(埼玉県・和光市掲示より)

「埼玉の神社」による白子熊野神社の由緒

熊野神社<和光市白子二-一五-五〇(白子字宿)>
天平宝宇二年(七五八)、朝廷は我が国に渡来した新羅の僧たちを武蔵国に移して新羅(志楽木)郷を作った。白子の地名は、この新羅から転訛したものといわれており、戦国時代の文書の中には「白子郷」の名が見える。また、天正十五年(一五八七)には、この白子郷に新宿が創設されており、後北条氏によって発給されたその書も掟書も現存する。こうした新宿の設置は、集散地としての町場の形成や、周辺の開発を促したものと思われ、村の規模は次第に大きくなり、元禄のころ(一六八八一七〇四)には上下に分村するに至った。上白子村は、現在は東京都練馬区北大泉町の辺りであり、下白子村は和光市の大字白子及び白子一-三丁目に相当する。
白子の鎮守は、元来は氷川神社であったが、いつのころからか熊野神社が鎮守とされるようになり、氷川神社は次第に衰微していった。『風土記稿』下白子村の項に「氷川社 村の北にあり、鎮座の年暦詳ならず、此村の鎮守なりしが、故ありて中古不動堂の境内なる、熊野権現を鎮守と崇めしゆへ、此社は自ら衰へたりと云、村内地福寺の持」とあるのは、そうした経緯を伝えるものである。この氷川神社は、地福寺境内の氷川山、今では今宮前と呼ばれている所にあった。
一方、熊野神社すなわち当社は、『風土記稿』「熊野宮滝の側にあり、村の鎮守なり、本社一間に九尺、上屋は二間に三間、前に鳥居を建つ、鎮座の年歴詳ならず」とある社のことで、高さ二・五メートルほどの滝を挟んで江戸時代に別当であった神滝山不動院がある。不動院は、天台宗の寺院で、川越市喜多院の末寺であり、滝の上には通称を滝不動という堂宇がある。
この滝不動は、天長七年(八三〇)に天台宗の高僧・慈覚大師円仁がこの清冽な滝に霊気を感じて堂宇を建立したことに始まると伝えられる。文化年間(一八〇四-一八)に当地を訪れた釈敬順が著した『遊歴雑記』には、宿の中ほどから入った「左りの高みに不動堂あり、此前の御手洗より清潔の水湧出し、白子一駅の人民を扶く(中略)依て滝不動と称して辻の建石に刻みてしらしめたり」と記され、同時期の『風土記稿』には「村中旱魃の時はこの処にて雨乞なせしと云」と載せている。また、不動院には、延慶年間(一三〇八-一〇)の板碑もあることから、この付近は少なくとも鎌倉時代には霊場として尊崇を受けるようになっていたと推測される。この、滝不動のそばに当社が祀られるようになった経緯は定かではないが、恐らく中世に武士や民衆の間に熊野信仰が広まっていったことと密接なかかわりがあるものと思われる。とりわけ、文明十八年(一四八六)に三井長吏三山並新熊野検校聖護院門跡道興が武蔵国を訪れたことは、その勢力の拡大を促すものであった。ちなみに、道興が帰洛後に紀行和歌集としてまとめたものが『廻国雑記』で、中世の新座郡の様子を知る上で重要な史料となっている。
熊野神社が、いつの時代にこの地に祀られたかは想像の域を出ないが、熊野信仰の本拠である紀伊国(現和歌山県)那智山に伝わる那智中世文書の中にある天文年間(一五三二-五四)ごろの「武蔵国檀那書立」の中に「しらこ庄 賀物助 庄 中務丞」という記述があり、当時の白子ではかなり熊野信仰の布教が進んでいたと推測される。したがって、遅くともこのころには、規模はともかくとして熊野神社が祀られていたのではないかと考えられる。また、徳川家康の関東入国の翌年に当たる天正十九年(一五九一)に、当地が恩賞として伊賀衆に給されたことも、白子における熊野信仰に拍車をかける一因になったかも知れない。
このように、滝不動及び熊野信仰の隆盛により、当社は氷川神社に代わって白子村の鎮守として祀られるようになった。更に川越街道の入口の宿場であり、毎月五十の日には市が立った白子の宿が地元にあったことも幸いして、江戸時代には滝不動や不動院と併せて、多くの参詣者を集めたものと思われる。
明治維新を迎え、当社は神仏分離によって別当から離れ、明治五年に氷川神社を合祀し、村社となった。(「埼玉の神社」より)


白子熊野神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿