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大和田観音堂。新座市大和田にある寺院

大和田観音堂の概要

大和田観音堂は、新座市大和田にある観音堂です。大和田観音堂の創建年代等は不詳ながら、徳川家康の関東入国により天正19年より当地の地頭となった芝山小兵衛正員が慶長年間(1596-1615)頃に創建した向善寺が管理していた観音堂です。その後芝山家は領地替えとなり(断絶か?)檀越を失ったものの、地域住民の信仰に支えられてきましたが、明治初年向善寺は廃寺、観音堂はその後も地域住民により支えられているそうです。

大和田観音堂
大和田観音堂の概要
山号 -
院号 -
寺号 観音堂
住所 新座市大和田4-6-1
宗派
葬儀・墓地 -
備考 -



大和田観音堂の縁起

大和田観音堂の創建年代等は不詳ながら、徳川家康の関東入国により天正19年より当地の地頭となった芝山小兵衛正員が慶長年間(1596-1615)頃に創建した向善寺が管理していた観音堂です。その後芝山家は領地替えとなり(断絶か?)檀越を失ったものの、地域住民の信仰に支えられてきましたが、明治初年向善寺は廃寺、観音堂はその後も地域住民により支えられているそうです。

「新座市史調査報告書9大和田の民俗」による大和田観音堂の縁起

観音堂
堂前の鰐口に
「于時元禄十四辛已暦八月十八日 大和田町向善寺観音堂 為両親幷一家一門二世安楽 施主飯塚氏 いわ 粉河丹後守作」
とある。ここにみられる向善寺という寺は現在では廃寺となっているが、近世初頭この地の領主であった芝山小兵衛正員の開基になる寺であった。『新編武蔵風土記稿』には向善寺について「街道の北側にて横町の間にあり、浄土宗川越蓮馨寺の末なり、慶長の頃高蓮社松譽上人開闢す 開基はもとの地頭芝山小兵衛正員なり、後芝山家所替ありてより、この寺も自らおとろへゆきて廃寺の如くなりしを、近き頃百姓某 力を盡して客殿を再造し、終に本尊以下佛具等を安ず」
と記している。また、これに続いて
「芝山小兵衛正員墓 客殿の前にあり 碑面に廻譽向善禅門とありて 慶長十年五月二十八日八十八歳にて卒せし由を刻す 前にもいへる如く此人開基せしによりて 寺號も法號の字を取り用ひしと見へたり 芝山彦十郎政勝墓 政勝は正員が父なり 元亀元年六月廿八日姉川御陣に供奉して討死す この墓石は子孫に至り手菩提の為に造立せしものにて いとあたらしきものなり」
と記している。
『武蔵国新座郡村誌』には、向善寺は「明治の初廢して今は民有の林叢となる」とあるが、現在ではその跡地は〇〇家をはじめ4戸の所有に分かれている。廃寺によって芝山政勝、正員節の墓塔は普光明寺の方へ移したと言い伝えており、今も『武蔵国風土記稿』が「いとあたらしきものなり」と記す元亀元年の銘文をもつ政勝の石塔は現在している。正員の方のは不明である。
この観音堂は芝山氏の開基になる向善寺の所有する堂であったわけであるが、前述の元禄十四年の鰐口にみられるように、その他の人々の信仰をも集めていったことがわかる。この観音堂の前にある丸彫地蔵立像の台座には、
享保四年二月十八日
導師向善寺 十世現蓮社 □誉□翁
日本回国 六拾六部 旦越供養
願主 當村 願誉良念
とある。
なお、堂内の木像聖観音菩薩立像は、その頭部内側の墨書銘によって宝永四(1707)年の造立であることが確認され、胎内納文書によって慶応元(1865)年と明治三十四(1901)年とに修理が行われていることがわかる。そして、その胎内納入品の中には「先祖代々一切精灵位」とか、それぞれ没年を記した「□□信士灵」、「□□禅定門灵」、「□□信女灵」などという経木塔婆が多数含まれており、人々の先祖供養をその趣旨とする意識がよくうかがえる(『新座古寺の彫刻』)。(「新座市史調査報告書9大和田の民俗」より)

新編武蔵風土記稿による大和田観音堂の縁起

(大和田町)
向善寺
街道の北側にて横町の間にあり、浄土宗、川越蓮馨寺の末なり慶長の頃高蓮社松譽上人開闢す、開基はもとの地頭柴山小兵衛正員なり、後芝山家所替ありてより、この寺も自らおとろへゆきて廃寺の如くなりしを、近き事百姓某力を盡して客殿を再造し、終に本尊以下佛具等を安ず。
芝山小兵衛正員墓
客殿の前にあり、碑面に廻譽向善禅門とありて、慶長十年五月二十八日八十八歳にて卒せし由を刻す。前にもいへる如く此人開基せしによりて、寺號も法號の字を取り用ひしと見へたり。(新編武蔵風土記稿より)


大和田観音堂の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿