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普光明寺。新座市大和田にある真言宗智山派寺院

普光明寺の概要

真言宗智山派寺院の普光明寺は、福壽山と号します。普光明寺は、大同元年(806)に律宗の比丘が開山したと伝えられ、正安3年(1301)の文書にも当寺に関する記載されているといいます。江戸期には、泉蔵院(竹間沢)、千光寺(上宗岡)、地蔵院(亀久保)、龍泉寺(大和田)、長勝院(館)、西光院(針ケ谷)、観音寺(下宗岡)の七ヶ寺を末寺・門徒寺として擁していた小本寺格の寺院でした。

普光明寺
普光明寺の概要
山号 福壽山
院号 -
寺号 普光明寺
本尊 不動明王像
住所 新座市大和田4-13-30
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



普光明寺の縁起

普光明寺は、大同元年(806)に律宗の比丘が開山したと伝えられ、正安3年(1301)の文書にも当寺に関する記載されているといいます。江戸期には、泉蔵院(竹間沢)、千光寺(上宗岡)、地蔵院(亀久保)、龍泉寺(大和田)、長勝院(館)、西光院(針ケ谷)、観音寺(下宗岡)の七ヶ寺を末寺・門徒寺として擁していた小本寺格の寺院でした。

新座市教育委員会新座市文化財保護審議委員会掲示による普光明寺の縁起

普光明寺
真言宗智山派の寺院で、寺伝によると大同元年(八〇六)に律宗の比丘が開山したと伝えます。本尊は不動明王です。
鎌倉時代の正安三年(一三〇一)、金沢称名寺の第三代長老である湛睿が記した『観経玄義分見聞集』の奥書には「・・・于時 正安三年辛丑五月廿二日羊尅 於武蔵国新倉郡大和田郷普光明寺令書写了」とあり、当時学僧であった湛睿が、普光明寺において書き写したことが見えます。
この普光明寺と、その周辺(大和田郷)は、すでに鎌倉幕府の支配下にある土地(国衙領)でした。
本堂前にある地蔵堂には、源頼家が奉納したと伝える千体地蔵尊が納められています。これは、三十三年ごとに開帳の行われる秘仏です。
山門は、享保年間の建立と言われ、「その作り工にしてことに高し」と江戸時代の『新編武蔵風土記稿』に記されています。中央に掲げられた扁額の「福壽山」は江戸の書家、佐々木玄龍の筆によるものです。
普光明寺には、中世の末から両墓制という、墓石を建てる場所(境内)と、遺体を埋葬する場所(三本木・ハケ上)を別にする風習が見られます。(新座市教育委員会新座市文化財保護審議委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による普光明寺の縁起

(大和田町)普光明寺
境内一町四方、街道の北にあたれり、田間にあり、福壽山と號す、新義真言宗、醍醐報恩院の末にて江戸愛宕真福寺の配下なり、寺傳に大同元年律宗比丘開山すと云、按に大同元年は弘法大師未だ高野山を開かざる前なり真言宗開基を問へば、大同・弘仁の間を以て云ことかの僧徒の常にして、兎角論ずべきものなし、されば當寺の開山も其年歴しるべからず、ただし暦應年間の古佛像を此寺にをさむといへば、いづれにも古き世に開けし寺なることはしらるれど、大同元年に開山すとて律宗比丘を今も寺僧の奉ずるは一笑すべし。中興開山法印権大僧都承慶和尚元禄七年九月廿一日示寂す。
門。西に向ふ、其つくり工にしてことに高し、福壽山の三字を額に掲げ佐玄龍の筆なり、又同じ並びの北に小門あり、是を通用門とす。
本堂。南に向ひ間口十間、奥行九間金剛殿の三字を扁し、本尊不動明王[丈五尺許]の立像を安ず。
千體地蔵。三間四面、本堂の前南の方にあり、此地蔵は古佛にて近き頃修造せしとてとりくづせしに、暦應元年戊寅開眼の由を記しありと云、昔六郷某武蔵野合戦にうち負け落人となりて、此地蔵堂の内にまどろみしに、はからず霊夢を蒙りしかば、それより引退して勝利を得たり、此事[太平記]にものせたり、今も其時帶たる太刀を地蔵丸と名づけて、其家に蔵せるよし寺僧の語り傳へなり、然るに[太平記]に載する所武蔵野合戦の條には此事を記さず、恐くは誤り傳しならん。
鐘楼。大門を入り右にあり、鐘の表に寳暦八年戊寅霜月とあり、近きものなれば銘文は略せり。
十輪菴。大門と通用門との間にあり、當寺の先住此に隠居せり、十輪菴の三字をかどの扉に掲ぐ、奇麗なる菴なり。(新編武蔵風土記稿より)


普光明寺の周辺図




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