上古寺氷川神社。比企郡小川町上古寺の神社

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上古寺氷川神社。エンエンワ(因縁和)行事、役小角が勧請の伝承

上古寺氷川神社の概要

上古寺氷川神社は、比企郡小川町上古寺にある神社です。上古寺氷川神社は、役小角が都幾山から望んだ景色から霊感を得たので、斎明天皇五年(659)に大宮氷川神社の分霊を勧請したと伝えられます。江戸時代には上古寺の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格していました。当社お九日(秋季例祭)に執行される「エンエンワ(因縁和)」は、当地の旧家18家の当主が参加して行われる行事で、小川町無形民俗文化財に指定されています。

上古寺氷川神社
上古寺氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 健速素戔嗚尊、奇稲田姫尊、大己貴命
相殿 -
境内社 八坂社、三社、稲荷・手長男・姥神社合殿、御嶽大神
祭日 お九日10月17日、祈年祭3月28日、お祇園7月15日
住所 比企郡小川町上古寺566
備考 -



上古寺氷川神社の由緒

上古寺氷川神社は、役小角が都幾山から望んだ景色から霊感を得たので、斎明天皇五年(659)に大宮氷川神社の分霊を勧請したと伝えられます。江戸時代には上古寺の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による上古寺氷川神社の由緒

(上古寺村)
氷川社
村の鎮守なり、村民持下同じ、
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天王社
熊野社(新編武蔵風土記稿より)

「小川町の歴史別編民俗編」による上古寺氷川神社の由緒

氷川神社(上古寺五六六)
因縁和の神事で有名な上古寺の氷川神社は、社記の『因縁和神事覚』によれば、斉明天皇の五年(六五九)九月十九日、役行者部(役小角)が関東に下向して廻遊していた際、この地の村人の敬神宗祖の念厚きに感じ、かつまたその景観をめで、霊感を得て地域中央の宮の森に小耐を建立すると共に、武蔵一宮氷川大神の分霊を勧請して手づから神像を木彫してこれを安置し、当地の繁栄鎮護を祈念したことに始まると伝えられる。この故を以て、氏子の間では毎年九月十九日に例大祭が斎行されてきた。
社殿に武蔵一宮氷川神社の宮司岩井宅幸筆の「氷川神社別御魂」という扁額が幕末に掲げられたのも、こうした創立の経緯によるもので、役行者が彫ったと伝えられる神像は、氷川神社の神体として今も本殿内に大切に祀るられている。ちなみに、社の近くの金嶽川には屏風ケ岩という滝があり、そこで役行者が斎戒休浴したといわれてきたが、慶応年間(一八六五~六八) の洪水によって大石が崩れ込んで浅瀬になってしまっており、往時の面影はない。
氷川神社で行われてきた特殊な祈願としては、養蚕倍成祈願と子供の癇封じがある。養蚕倍成祈願は、繭五~七個に糸を通し、拝殿の格子のところにつるすもので、養蚕が盛んに行われていた昭和三十年ごろまでは秋になるとよく上がっていた。癇封じは、竹を切って作った筒を二本つなぎ、これに酒を入れて供え、祈願するもので、昔は時折見かけたが、近年では絶えてしまった。
境内には、役行者が当地に寓居した時の手作りの面を祀る姥神神社、村の悪疫を被う八坂神社、火防の神として祀る天手長男神社、雨乞いや雷除けに御利益のある雷電神社、豊作や子孫繁栄をもたらしてくれる稲荷神杜などが祀られている。この稲荷神社は、白蟻除けの信仰もあり、神前の白狐像一対を借りて帰り、家の大黒様の横に祀っておくと白蟻が家に上がらないとの信仰がある。
また、本殿の裏側には「御末社」と呼ばれる一八の祠が祀られている。この「御末社」は、氷川神社の創建当時、この地域を開発したとされる草分けの一八戸の氏神を祀ったもので、寺院でいう位牌堂のような印象を受ける。なお、秋の例大祭に行われる因縁和の神事では、全国七十余州の一宮への奉献に先だち、この「御末社」に対して献膳を行うのが習いとなっている。(「小川町の歴史別編民俗編」より)

「埼玉の神社」による上古寺氷川神社の由緒

氷川神社<小川町上古寺五六六(上古寺字宮ノ平)>
古寺は、文字通り古い寺があったことから地名となったと伝えられる。明治十九年の地誌の下調書によると、聖武天皇の天平年間(七二九-四九)に各地に国分寺・国分尼寺が建立されたが、それ以前に当地の中央に既に大講堂という大きな堂宇があり、大宝年中(七〇一-〇四)に大和国葛城の行者、役小角が関東に下向し、その近傍を遊歴したという。後に小角が都幾山に移り慈光寺を建立し、その住職であった慈薫和尚がしばらく大講堂の住僧となっていた関係で、慈光寺の所管となる。貞観二年(八六〇)二月に左大臣清原晏世卿為公が勅使として郡司宣下の折、慈光寺の寺領・境界を定めた際に、この地には慈光寺以前に古い寺(大講堂)があったので古寺村と名付けたとされる。そして正慶二年(一三三三)に守邦親王が来寓して、その古い寺が東の王の意から東王寺となった。慈光寺は県内最古と伝えられる天台宗の寺院で、寺伝によると天武天皇二年(六七三)に慈光老翁が観音堂を建立したのが草創で、その後役小角が西蔵坊という修験道場を開き、鑑真の弟子釈道忠が仏像を建立したという異伝が残る。
古寺が上下に分かれた年代は明らかではないが、正保年間(一六四四-四八)の編纂である「武蔵田園簿」には上下の古寺村の村名がみえるから、正保以前に分村している。延宝三年(一六七五)の「秣場争論絵図」によると、当時の上古寺は家数が七四戸で現在とほとんど変わっていない。これは耕地面積が限られていることに加えて、山間谷合いの地なども開墾しにくい地形であったためである。
当地に小川町方向から入って来ると、谷が松郷峠と小門の両方向に分かれ、その中央に小高くこんもりと茂る杜がすぐに目につく。その杜に鎮座するのが当社である。杉・檜・椎の古木に包まれる中、長い参道を歩くと荘厳な雰囲気が漂い、いかにも神域にふさわしい景観を呈している。鎮座地は上古寺の中央に位置していることもあり、古くから地内の人々の心の拠り所となってきた。
創建は、斎明天皇五年(六五九)に、役小角が都幾山から望んだ景色を賞で、かつ霊感を得たので祠を建て、氷川神社(現大宮氷川神社)の分霊を勧請した。そして、自作の木彫りの神像を奉安し、当地の繁栄鎮護の祈念を行ったと伝える。その際、社の裾を回り流れる金嶽川の屛風ケ岩の滝で斎戒沐浴して身を清め修行したという。神像は戴冠着衣の男神木彫座像で、神体として現在も奉安されている。滝は、慶応年間(一八六五-六八)の大水で大石が流れ込んで滝口を塞いでしまい、滝壺も浅瀬となり往時の姿を残していない。
こうした創建伝承によるものであろうが、幕末に大宮氷川神社の宮司を務めた岩井宅幸の筆になる「氷川神社別御魂」の木扁額が掲げられている。
武蔵国は、宝亀二年(七七一)にそれまでの東山道から東海道に属することになり、必然的に相模国から入る交通路が採られるようになる。そして、源頼朝が鎌倉の地に幕府を開いて以来、慈光寺は頼朝の崇敬を受けた。鎌倉幕府最後の将軍、守邦親王が同寺の末寺である東王寺に寓した伝承が残るのも源家が信仰したからである。
当社の祭祀・管理を掌っていた別当がその東王寺で、つまり古寺の地名の由来となった寺である。しかし、数度の火災により焼失したため、『風土記稿』上古寺の項には「氷川社 村の鎮守なり、村民持」と記され、既に別当寺は無くなっていた。
社殿の改築は、棟札によれば元文年間(一七三六-四一)に計画されたが、資金不足と名主松本弥右衛門が病弱で没した事情により、着工に至らなかった。次いで宝暦六年(一七五六)に、名主松本与衛門を中心に氏子の浄財二九両九歩を集めて檜皮葺の社殿が竣工した。この時は別当がまだ存在しており、東王寺尊翁が遷宮導師を奉仕している。したがって東王寺が焼失したのはその後のことであり、文化年間(一八〇四-一八)以前の四十余年間となる。当時の社号は氷川大明神で現在も“みょうじんさま”と呼び親しまれているのは旧社号によるのである。
なお、上古寺の地内には、古寺七貝戸もしくは古寺八貝戸と伝えられるほど貝戸の付いた地名が多い。普通は垣内の字を当てる場合が多く、垣の内を意味し国府域にもよくみられるが、一般には土豪の囲い込んだ垣の内を指すようで、当地での貝戸は本家の姓や屋号と同じ貝戸名であり、その家々はすべて土地の草分け的存在である。(「埼玉の神社」より)


上古寺氷川神社所蔵の文化財

  • 上古寺のエンエンワ(小川町指定無形民俗文化財)

上古寺のエンエンワ

氷川神社は、役小角(役行者)が小祠を建立し武蔵一宮氷川大神の分霊を勧請したことに始まると伝えられている。御神体は木造神像で、製作時期は室町時代末期を下らない。また、境内からは中世の古瓦が出土し境内の姥神社の御神体は鬼瓦であることから、中世には瓦葺の社殿が建立されていたと考えられる。
「オクンチ」といわれる当社の秋祭りでは、「中道廻り」という珍しい行事が行われる。先達が全国60余州の一宮の神々を唱えると氏子が「エンエンワー」と大声で唱和し、供物を空高く投げて宮地に供えながら「中道」と呼ばれる唱道を一周する。八百万神を対象とした特徴的な神事であり、この祭りを「エンワンワ(因縁和)」とも呼んでいる。
また、この地域を開発したとされる草分けの18戸の氏神を祀ったと考えられる御末社に、アオキの葉に粳米から作った「シトギ」と赤飯、洗米・塩を入れた小皿、茅の箸を台付きの盆にのせ、地区の子どもが献膳する。「シトギ」などのお供えの形態、装束や名称なども古い様式を踏襲しており、地区全体でその伝統を保持し伝承するなど、地域に密着した無形民俗文化財として大変貴重である。(小川町教育委員会掲示より)

上古寺氷川神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「小川町の歴史別編民俗編」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)