笠原熊野神社。比企郡小川町笠原の神社

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笠原熊野神社。柑名桜井氏が文禄年間に勧請

笠原熊野神社の概要

笠原熊野神社は、比企郡小川町笠原にある神社です。笠原熊野神社は、信州方面から移住してきた柑名桜井氏が氏神として文禄年間(1592-1596)に創建、熊野本宮からある行者が持ち来たという白い石を神体としているといいます。

笠原熊野神社
笠原熊野神社の概要
社号 熊野神社
祭神 伊弉冉命、速玉男命、事解男命、倉稲魂命
相殿 -
境内社 天神社、山王社、稲荷社、御嶽社
祭日 例大祭10月19日、春祭り2月25日
住所 比企郡小川町笠原333
備考 -



笠原熊野神社の由緒

笠原熊野神社は、信州方面から移住してきた柑名桜井氏が氏神として文禄年間(1592-1596)に創建、熊野本宮からある行者が持ち来たという白い石を神体としているといいます。

新編武蔵風土記稿による笠原熊野神社の由緒

(竹澤笠原村)
熊野社
村の鎮守なり、村民持、(新編武蔵風土記稿より)

「小川町の歴史別編民俗編」による笠原熊野神社の由緒

熊野神社(笠原三三三)
笠原の熊野神社は、信州方面からやってきて笠原の地に土着した柑名桜井氏が氏神として文禄年間(一五九二-九六)に創建したものといわれている。創建に当たっては、修験の行者が紀州(現和歌山県)の熊野三社から分霊を受けてきたと伝えられ、その時熊野本宮から持ち帰ったという白い石が神宝となっている。また、石段の脇にある行者社と称する小祠は、この行者を祠った社であるという。
江戸時代には諏訪神社と共に村の鎮守とされ、明治維新後は諏訪神社が村社になったために、熊野神社は無格社ではあったが笠原に住む桜井姓の人々の氏神として厚く信仰されてきた。社殿内には、天保十三年(一八四二)に「宮再建」をした時の棟札があり、それに飯田村長福寺の法印春乗の名が記されていることから、江戸時代は長福寺が祭祀に関与していたことがうかがえる。
なお、かつては熊野神社では女人禁制とされ、女性は鳥居のところから上に登ることは禁じられていた。この禁制は、明治三十年代ごろまで厳しく守られていたらしく、当時の女性は鳥居の脇あたりから社殿の方を見上げて遥拝したものであったという。(「小川町の歴史別編民俗編」より)

「埼玉の神社」による笠原熊野神社の由緒

熊野神社<小川町笠原三三三(笠原字上日向)>
外秩父山地の一角にある笠原は、正保から元禄のころ((一六四四-一七〇四)に竹沢村から分村した五か村の一つで、兜川の支流である滝川に沿った山間地に集落が点在する。当社は、文禄のころ(一五九二-九六)、この笠原の地に柑名桜井氏という落人が土着した時に、氏神として奉斎した社であると伝えられている。柑名桜井氏についての詳しいことは明らかではないが、笠原の村の鎮守である諏訪神社の創建にも深いかかわりがあり、信州方面から来た人であったらしく、その屋敷があったと伝えられる「柑名屋敷」と呼ばれる場所が諏訪神社の近くにある。ただし、屋敷そのものは随分昔に火事で焼けてしまい、名称を残すだけである。
当社の本殿には、長径一六センチメートル、短径一一センチメートルほどの楕円形をした白い石が神宝として納められている。この石は、当社の創建にかかわっていた行者が、紀州の熊野神社本宮から分霊を受けて来た時に一緒に持ち帰ったものと伝えられ、当社の創建にかかわる貴重な史料として大切にされてきた。なお、参道の脇にある行者社と呼ばれる小さい祠は、この行者の霊を祀ったものである。このほか、本殿には天保十三年(一八四二)十一月銘の棟札が納められており、この年に社殿が再建されたことや飯田村の長福寺の住職が社殿再建にあたり護摩供を奉修したことなどを知ることができる。(「埼玉の神社」より)


笠原熊野神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「小川町の歴史別編民俗編」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)