弘法山観音堂。入間郡越生町成瀬にある真言宗智山派寺院

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弘法山観音堂。旧高房山妙見寺、武蔵越生七福神弁財天

弘法山観音堂の概要

真言宗智山派寺院の観音堂は、弘法山と号します。弘法山観音堂の創建年代等は不詳ながら、当地弘法山は高房山と書され、安置されていた観音菩薩像が弘法大師作と伝えられることから、弘法山と書されるようになったのではないかといいます。小杉天神社の棟札(応永12年1405年銘)に高房山禅海と記載されていることから、室町時代には寺院があったことが知られ、江戸期には高房山妙見寺と号した寺院があったものの、明治維新後に廃寺となり、観音堂が残されました。入比板東三十三所観音霊場21番です。現在は、境内中央に弁財天が祀られ、武蔵越生七福神の弁財天として著名です。

観音堂本堂
観音堂の概要
山号 弘法山
院号 -
寺号 観音堂
本尊 馬頭観音菩薩
住所 入間郡越生町成瀬287
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



弘法山観音堂の縁起

弘法山観音堂の創建年代等は不詳ながら、当地弘法山は高房山と書され、安置されていた観音菩薩像が弘法大師作と伝えられることから、弘法山と書されるようになったのではないかといいます。小杉天神社の棟札(応永12年1405年銘)に高房山禅海と記載されていることから、室町時代には寺院があったことが知られ、江戸期には高房山妙見寺と号した寺院があったものの、明治維新後に廃寺となり、観音堂が残されました。

新編武蔵風土記稿による弘法山観音堂の縁起

(成瀬村)妙見寺
新義眞言宗、上野村醫王寺末、高房山と號す、小杉村天神社應永十二年の棟札に、當社別當高房山禅海、開闢以来威光増益云々と見えたり、高房山は當寺のことならんには、舊き寺にて其頃は天神の別當たりしことしらる、本尊地蔵を安ず、客殿の傍に鍾樓あり、明和元年鑄造の鐘をかけおけり。
觀音堂。如意輪觀音の坐像長二尺なるを安ず、弘法大師の彫刻なりと云。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による弘法山観音堂の縁起

弘法山と子育て観世音
弘法山は、山頂に諏訪神社、中腹に観音堂、山麓に見正寺があり、全山に信仰対象が置かれている。古くは「高房山」と記されており、当地の小字名も「高房」である。観音堂の本尊の観音菩薩が弘法大師の作と伝えられていることなどから、「弘法山」と表記されるようになったものと考えられる。
山頂からの優れた眺望については、江戸幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』に「高房山圖」の絵入りで掲載されている。「高さ五丁余りにて、四辺は松杉生ひ茂りて中腹に妙見寺あり。夫より頂までは殊に険阻の山なり。頂には浅間の祠を建て、祠辺よりの眺望最も打ち開けたり。先ず東の方は筑波の山を始めとして、比企、足立、江戸を打越して、遠く房総の山々を見渡し、南は八王子の辺までのあたりに見え、西は秩父ヶ岳及び比企郡笠山、乳首山など連り、北は三国峠より信州、越州の高山見えたり」と海抜二百メートル足らずの山について異例の紙幅を割いている。
現在、浅間社は山麓から遷座した諏訪神社に合祀されている。妙見寺は廃寺となったが、のこされた観音堂は安産子育ての観音様として参詣者が絶えない。乳房をかたどった縫いぐるみを奉納する習俗は、民俗学的にも注目されている。(越生町教育委員会掲示より)


弘法山観音堂の周辺図