正法寺。武蔵越生七福神の大黒天
正法寺の概要
臨済宗建長寺派寺院の正法寺は、大慈山と号します。正法寺は、鎌倉長壽寺を開山した古先印元和尚が創建したと伝えられ、貞和年間(1345-1350)に足利尊氏が佛壽禅師を開山として中興したといいます。徳川家康の関東入国に際しては天正19年(1591)に寺領10石の御朱印状を拝領、江戸期には寺子屋も開かれ、学制頒布後もしばらくは「正法寺の学校」と呼ばれ存続していたといいます。入比板東三十三所観音霊場24番、武蔵越生七福神の大黒天、武州八十八所霊場2番です。
山号 | 大慈山 |
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院号 | - |
寺号 | 正法寺 |
本尊 | 木造聖観音像 |
住所 | 入間郡越生町越生960 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
正法寺の縁起
正法寺は、鎌倉長壽寺を開山した古先印元和尚が創建したと伝えられ、貞和年間(1345-1350)に足利尊氏が佛壽禅師を開山として中興したといいます。徳川家康の関東入国に際しては天正19年(1591)に寺領10石の御朱印状を拝領しています。
新編武蔵風土記稿による正法寺の縁起
(今市村)正法寺
大慈山と號す、天正十九年寺領十石の御朱印を附せらる、臨済宗、鎌倉建長寺の末なり、寺僧の傳へに開基は将軍尊氏にて、佛壽禅師を開山となせり、佛壽は文和三年二月十八日化すとす、按に僧石室が撰べる鎌倉長壽寺開山古先印元和尚の行状に、武州正法を剏建すとあり、正法と云は當寺のことにや、もし當寺ならんには、佛壽を開山とする事いかがはあらん、或は印元創せしなれど、已に其處にをらずして、佛壽を請て開山とせしも知べからず、又寺寶に心經の木版あるに由れば、古は眞言宗なりしにや、本尊は十一面觀音を安ず。
寶物
般若心經木版。甚古色の物なり、前面に漢人の馬を率たる像及び經文を刻し裏面に大慈山と大書し、傍に正法寺寺造營勧進と鐫刻せり。
觀音堂。丸木の柱をもて造れり、最古色の堂なり、相傳へて大同年中の建立のよしいへど、おぼつかなし。
鍾樓。延享五年七月、鑄造の鐘をかく。
閻魔堂。
天神社。(新編武蔵風土記稿より)
越生町教育委員会掲示による正法寺の縁起
大慈山正法寺は臨済宗鎌倉建長寺の末寺である。幾度かの火災により旧記が失われ寺歴の詳細は不明であるが、鎌倉時代の創建で、貞和年間(一三四五~五〇)に足利尊氏が中興したと伝えられている。
本尊の木造聖観音菩薩像は、南北朝期の仏像の典型的な様式を伝える法衣垂下像の優品である。
本堂脇の閻魔堂は、龍ヶ谷の龍穏寺の坐禅堂を移築したものである。閻魔像の台座は、越生まつりに巡行する新宿町の山車に、かつて載せられていた人形台座の転用である。また、閻魔堂の前に立つ板碑は文永四年(一二六七)の造立と推定される町内では最古級の板碑である。
正法寺では江戸時代から寺子屋が開かれ、学制頒布後もしばらくは「正法寺の学校」と呼ばれ存続していた。明治十年(一八七七)に師匠の第二十七世住職大道碩圓を顕彰し、弟子たちが建てた寿塔の台石には「生徒名簿」が刻まれている。
山門と閻魔堂の額は幕末三舟の一人、山岡鉄舟の書である。
なお、ここ一帯の地名「入定場」は、僧侶が食と水を断って「活仏」(即身仏)になる「入定」が行われていたことに由来するという。山門裏手には「入定塔」が立っている。(越生町教育委員会掲示(越生町教育委員会掲示より)
正法寺所蔵の文化財
- 山岡鉄舟揮毫の扁額(越生町指定文化財)
山岡鉄舟揮毫の扁額
山岡鉄舟(鐵舟・鐵太郎)は、天保七年(一八三六)、小野朝右衛門高福の四男として江戸で生まれた。幼少時から神陰流、樫原流槍術、北辰一刀流を学び、武術に天賦の才能を示した。のち、入婿先の山岡姓を名乗った。
江戸城引き渡しの際の勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、駿府(現静岡市)で西郷に談判し、無血開城に尽くしたことで知られる。
明治維新後は、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔などを歴任した。勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。身長六尺二寸(一八八cm)、体重二十八貫(一〇五kg)という堂々たる偉丈夫であった。
木呂子村(現小川町木呂子)に父の所領があった縁で越生にも来遊し、当寺に参禅した。閻魔堂の扁額も鉄舟の遺墨である。(越生町教育委員会掲示より)
正法寺の周辺図