知足院。足立坂東観音霊場初番
知足院の概要
真言宗智山派寺院の知足院は、龍谷山弥勒寺と号します。知足院の創建年代等は不詳ながら、正応年間(1288-1293)に創建、天正年間に武田信玄が再興したと伝えられ、その後盛典(延享4年1748年寂)が再再興したといいます。盛典は梵語学者としても知られ、庶民への布教活動にも力を注ぎ、当寺は初番とする足立坂東観音霊場を創設しています。
山号 | 龍谷山 |
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院号 | 知足院 |
寺号 | 弥勒寺 |
住所 | 桶川市下日出谷西3-15-2 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
知足院の縁起
知足院の創建年代等は不詳ながら、正応年間(1288-1293)に創建、天正年間に武田信玄が再興したと伝えられ、その後盛典(延享4年1748年寂)が再再興したといいます。
新編武蔵風土記稿による知足院の縁起
(下日出谷村)知足院
新義真言宗、横見郡御所村息障院末、本尊彌勒運慶の作と云。
観音堂。十一面観音を安ず、立像長一尺餘にて弘法大師の作と云。
鍾樓。享保二十年の銘をえれり、其中寛文九年六月廿二日回禄に逢ひしこと見ゆ、外に考證とすべきことなし。(新編武蔵風土記稿より)
知足院所蔵の文化財
- 梵語学者盛典の墓
梵語学者盛典の墓
盛典は、寛文二年(一六六二)に上種足村(現在の騎西町)に生まれ、加納村(現在は桶川市内)の光照寺において光栄の弟子となり、さらに大和長谷寺、京都の知積院などで修業を重ね、元禄十年(一六九七)に知足院の住職となっている。その後、他の寺の住職にもなっているが、晩年は知足院に隠居し、延享四年(一七四七)に八十四才でこの世を去っている。
盛典は、梵語の研究において名高い真言教学の学僧であったが、庶民への布教活動にも力を注ぎ、この知足院の観音堂を一番として三十三ヶ所の寺院を結ぶ足立坂東観音霊場の創設は代表的な事績である。
盛典が宗教者として生きた時代は、江戸時代の中でも、世の中が安定し農民の暮しにもいく分ゆとりが生まれ、信仰を兼ねた旅行として、神社仏閣への参詣が盛んになる時代でもあった。特に現生利益を願う庶民に観音信仰が受け入れられ、西国、坂東、秩父などの霊場巡礼を行うことは当時の庶民のささやかな願望であった。盛典はこのような願望を身近なところに実現すべく「足立坂東観音霊場」を設けたのであろう。
知足院は、竜足山弥勒寺と号し、古くは京都御室の仁和寺の末寺であったが、現在は真言宗智山派に属している。開基については不詳であるが、天正年間に武田信玄が再興したと伝えられ、その後衰えた寺を盛典が中興したという。(埼玉県・桶川市掲示より)
知足院の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 上日出谷氷川神社