兵執神社。嵐山町指定文化財の兵執神社獅子舞
兵執神社の概要
兵執神社は、比企郡嵐山町古里にある神社です。兵執神社の創建年代等は不詳ながら、「𦪘執明神」とも記載され、高谷村・高見村にも鎮座、高見の𦪘執明神は鉄剣を神体として奉安されていたことなどから、中世の武将が武運長久を祈り奉斎したのではないかともいいます。江戸期には古里村の鎮守として祀られ、明治40年には愛宕・八坂・小女郎・稲荷・八幡・日枝・山神社を合祀、大正5年村社に列格していました。当社秋季例大祭で奉納される兵執神社獅子舞は、町文化財に指定されています。
社号 | 兵執神社 |
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祭神 | 武甕槌命 |
相殿 | - |
境内社 | 八坂神社、愛宕神社、鎌倉稲荷神社、八幡神社、天満宮、山神・日枝・白山・小女郎合殿 |
祭日 | 春例大祭4月19日、秋例大祭10月19日前後の土・日曜日 |
住所 | 比企郡嵐山町古里766 |
備考 | - |
兵執神社の由緒
兵執神社の創建年代等は不詳ながら、「𦪘執明神」とも記載され、高谷村・高見村にも鎮座、高見の𦪘執明神は鉄剣を神体として奉安されていたことなどから、中世の武将が武運長久を祈り奉斎したのではないかともいいます。江戸期には古里村の鎮守として祀られ、明治40年には愛宕・八坂・小女郎・稲荷・八幡・日枝・山神社を合祀、大正5年村社に列格していました。なお、高谷𦪘執神社は八和田神社に、高見𦪘執神社は四津山神社に合祀され、兵執(へとり)と号する社は周辺では当社のみとなっています。
新編武蔵風土記稿による兵執神社の由緒
(古里村)
𦪘執明神社
村の鎮守なり、社内に蔵する寶永七年の棟札には、兵執明神と書せり、
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愛宕社
稲荷社
以上三社は龍泉寺持、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による兵執神社の由緒
兵執神社<嵐山町古里七六六(古里字中内出)>
古里は、滑川右岸の比企丘陵と低地とからなる。地名は文字通り古い村、すなわち昔から人家の集まっていた集落の意とされ、縄文期の集落跡である上耕地遺跡や古里古墳群など数十基以上の遺跡が残る。
当社の創建年代は不明であるが、社号については、『風土記稿』に「𦪘執明神社 村の鎮守なり、社内に蔵る宝永七年(一七一〇)札には、兵執明神と書せり」と載せ、社号額も𦪘執大明神で、また本殿床下に納められている神祇管領ト部兼雄が安永三年(一七七四)八月に発給した幣帛の筥も同社号である。当社が兵執明神社であったのは宝永以前のことで、安永期までの間に改号され、下って『郡村誌』は「舳執社」であるから、明治九年以降に更に現社号に改められた。
別当の龍泉寺は、江戸山王社の別当城琳寺の末寺で、開山の僧侶は貞治三年(一三六四)十月に入寂したと伝える中世の天台宗寺院である。天正七年(一五七九)銘の仏像を安置していたとか、宮家の隠居が住んでいたと伝えられるが、廃寺となり現在社務所になっている。
『風土記稿』高谷村と高見村の項にも「𦪘執明神社」が見え、高見の𦪘執社には鉄剣が神体として奉安されていた。恐らく、𦪘執社は中世の武将が武運長久を祈り奉斎した社ではないかと思われる。
明治四十年に愛宕・八坂・小女郎・稲荷・八幡・日枝・山神社を合祀した。大正五年に村社に列している。(「埼玉の神社」より)
兵執神社所蔵の文化財
- 兵執神社獅子舞(町指定有形文化財)
兵執神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)
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