大蔵神社。比企郡嵐山町大蔵の神社

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大蔵神社。大正7年に大蔵館跡へ遷座した旧山王社

大蔵神社の概要

大蔵神社は、比企郡嵐山町大蔵にある神社です。大蔵神社の創建年代等は不詳ながら、当地は六条判官源為義の次男で木曽義仲の父源義賢の居館跡にあたり、源義賢が天養元年(1144)に勧請したとも伝えられ、また応永元年(1394)に草創した天台宗安養寺が(比叡山延暦寺の守護である山王日吉神社)日吉大社を勧請したとも伝えられ、山王社と称して字宮ノ裡に鎮座していました。江戸期には大蔵の鎮守として祀られ、江戸幕府より社領10石の御朱印状を慶安年間(1648-1652)に受領していました。明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治42年以降地内の諸社を合祀、大正7年、稲荷社が鎮座していた当地(字御所ヶ谷戸)へ当社が遷座しています。なお当地一帯は源義賢の大蔵館跡とされ、埼玉県史跡に指定されています。

大蔵神社
大蔵神社の概要
社号 大蔵神社
祭神 大山咋命
相殿 -
境内社 山王大権現、八坂神社、富士浅間神社
祭日 春祭り4月14日、天王様7月20日前後の日曜、諏訪祭8月31日/9月1日、秋祭り10月21日
住所 比企郡嵐山町大蔵522
備考 -



大蔵神社の由緒

大蔵神社の創建年代等は不詳ながら、当地は六条判官源為義の次男で木曽義仲の父源義賢の居館跡にあたり、源義賢が天養元年(1144)に勧請したとも伝えられ、また応永元年(1394)に草創した天台宗安養寺が(比叡山延暦寺の守護である山王日吉神社)日吉大社を勧請したとも伝えられ、山王社と称して字宮ノ裡に鎮座していました。江戸期には大蔵の鎮守として祀られ、江戸幕府より社領10石の御朱印状を慶安年間(1648-1652)に受領していました。明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治42年以降地内の諸社を合祀、大正7年、稲荷社が鎮座していた当地(字御所ヶ谷戸)へ当社が遷座しています。

新編武蔵風土記稿による大蔵神社の由緒

(大蔵村)
〇山王社
村の鎮守なり、社領十石は慶安年中賜はれり、別當安養寺
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天神社
愛宕社
天王社
神明社
稲荷社
諏訪社
以上安養寺の持、
(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による大蔵神社の由緒

大蔵神社<嵐山町大蔵五二二(大蔵字御所ヶ谷戸)>
当地は、鎌倉街道の要衝として知られ、鎌倉開幕以前に築造されていた大蔵館跡がある。この館は、六条判官源為義の次男義賢の居城であった。義賢は木曾義仲の父で、近衛院の春宮の帯刀の長を務めたことから帯刀先生と称した。上野国平井を本拠としていたが、武蔵北西部の豪族秩父重隆の養子となり、仁平三年(一一五三)に当地に移ると上野・武蔵両国にまたがり勢力を伸ばした。しかし、これが兄の義朝の勢力組織と衝突するところとなり、義朝の長子で甥に当たる義平とこの大蔵の地で合戦に及び、久寿二年(一一五五)八月十六日に養父ともども滅ぼされた。義平は時に弱冠十五歳で、その後悪源太の異称を奉られた。この出来事は、鎌倉時代編纂の歴史書である『百錬抄』『吾妻鏡』のほか『平治物語』などに軍記物として記され、人々に永く語り継がれてきた。
当社は、明治三十五年の「日吉神社(当社)土地森林境内編入出願に付取調上申書」に、古老の口碑として、木曾義賢が大蔵館の新築後に、武神として尊信していた近江国日吉神社の分霊を天養元年(一一四四)に勧請したと伝える。しかし、この勧請年は義賢の居城年代と合わない。これは当社の由緒が、いつしか義賢伝承と結びつけて語られるようになったためであろう。当社は、『風土記稿』大蔵村の項に「山王手 村の鎮守なり、社領十石は慶安年中(一六四八-五二)賜はれり」と記され、別当の安養寺については「天台宗、下青鳥村浄光寺の末、大乗山寂光院と称す、本尊阿弥陀を置り、開山広覚応永元年(一三九四)草創とのみ伝えり、されど是等に拠れば、山王社も旧きものなるべし」と記している。そこで同寺が天台宗寺院であることから推して、総本山である比叡山延磨寺の護法神・守護神である日吉山王権現を、安養寺の僧が本山と同様に寺鎮守として、その草創と同じころに勧請したとも考えられる。本殿内には、日吉山王権現と思われる僧形の立像が奉安されている。
安養寺の管理は明治初年の神仏分離まで続いたようで、嘉永四年(一八五一)三月の「山王宮苗木寄進帳」には、安養寺住僧三八世旭順が世話人名主当番の堀之内輪吉らとともに、当社境内と「御伊勢様」(現大行院神明殿)に苗木を植樹した記事がある。
明治四十二年二月、当社境内社の八坂神社に雷電社・諏訪社の二社を合祀し末社八坂神社となる。また、字御所ヶ谷戸の稲荷神社に字大東の菅原神社と当社境内社の木の宮社・愛宕社・菅原社の四社を合祀し、それが更に当社の境内社稲荷神社となった。この時に境内社の三峰神社・大神宮社・八幡社を当社に合祀した。当社の鎮座地も、大正七年に字宮ノ裡から大蔵館跡地に移り、現社号に改めた。(「埼玉の神社」より)


大蔵神社所蔵の文化財

  • 大蔵館跡(埼玉県指定史跡)

大蔵館跡

大蔵館は、源氏の棟梁六条判官源為義の次子、東宮帯刀先生源義賢の居館で、都幾川をのぞむ台地上にあった。現存する遺構から推定すると、館の規模は、東西一七〇メートル・南北二〇〇メートル余りであったと思われる。
館のあった名残りか、館跡のある地名は、御所ヶ谷戸及び堀之内とよばれる。
現在遺構としては、土塁・空堀などがありことに東面一〇〇メートル地点の竹林内(大澤知助氏宅)には、土塁の残存がはっきり認められる。また、かつては高見櫓の跡もあった。なお、館跡地内には、伝城山稲荷と大蔵神社がある。
源義賢は、当地を拠点として武威を高めたが、久寿二年(一一五五年)八月じゅうろくにち、源義朝の長子である甥の悪源太義平に討たれた。
義賢の次子で、当時二歳の駒王丸は、畠山重能に助けられ、斎藤別当実盛により木曽の中原兼遠に預けられた。これが、後の旭将軍木曽義仲である。(埼玉県掲示より)

大蔵館跡

大蔵館は、八次にわたる発掘調査や館周辺の遺跡群の発掘調査、現存する考古資料などから、小館と大館の二つの構えが存在したことがわかっている。現存するのは大館の跡で、土塁や空堀の配置状況から推定される規模が東西一七〇、南北二二〇メートルを測り、面積にして四万平方メートルに及ぶ。一方、小館の跡は、発掘調査により遺構が確認されたものであり、一辺が七〇メートルの堀を方形にめぐらせた区画である。堀の内側には柵列のような柱穴列や掘立柱の建物跡などが確認された。しかし、大小の館が築かれ、存在した年代の詳細は明らかではない。
この地域の中世史は、大きく三期に分けて理解することができる。第一期は、十二世紀代、すなわち史料に見る源義賢の年代である。第二期は、十三世紀から十四世紀前半、この時期は周辺遺跡群や考古資料とも一致する大蔵の最盛期で、鎌倉街道大蔵宿の繁栄が背景にあったと予想される。小館の堀は、この時期の終わりには完全に埋め戻されている。第三期は、十五世紀以降、極端に出土品や考古資料が少なくなり、地域の衰退期と捉えることができるが、大蔵の普請が行われた時期と考えられる。
発掘調査によって判明した大小の館跡は、「鎌倉街道」と都幾川の河川交通の交わる大蔵宿の中心としての姿や、街道筋で南北朝~室町、戦国期に繰り返された多くの合戦の際にも、攻防の場、また拠点として利用されていた様相をうかがわせている。(嵐山町教育委員会掲示より)

大蔵神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)