宝薬寺。比企郡嵐山町越畑にある曹洞宗寺院
宝薬寺の概要
曹洞宗寺院の宝薬寺は、醫徳山と号します。宝薬寺は、廣正寺第2世南叟壽玄(寛永19年1642年寂)が開山したといいます。
山号 | 醫徳山 |
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院号 | - |
寺号 | 宝薬寺 |
本尊 | 釋迦牟尼佛像 |
住所 | 比企郡嵐山町越畑1086 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
宝薬寺の縁起
宝薬寺は、廣正寺第2世南叟壽玄(寛永19年1642年寂)が開山したといいます。当寺境内には薬師堂があり、薬師堂の創建は神亀元年(724)で、薬師如来像は行基菩薩の作とも伝承されていました。
新編武蔵風土記稿による宝薬寺の縁起
(越畑村)
寶薬寺
曹洞宗、廣野村廣正寺の末、薬王山と號す、元和年中の僧南叟壽玄の草創と云、壽玄は本寺二世の住僧にて、寛永十九年二月三日寂す、本尊釋迦を安置せり、
薬師堂。薬師は行基の作なり、安永四年に書たる縁起に、此堂は神龜元年の起立なりと云ど、信ずるに足ざる説多ければ、爰には採ず、(新編武蔵風土記稿より)
宝薬寺所蔵の文化財
- 八宮神社獅子舞
八宮神社獅子舞
八宮神社は、天平年間(七二九年頃)の創建と伝えられ、承平年間(九三一年頃)源経基が戦勝祈願したと云われ、明治四十年には八社を合祀した。
この獅子舞の起源は、悪病流行や大ききんのあった時、伊勢山田より伝えられたともいい、一説には、徳川時代(元禄の頃)伝えられたともいう。
獅子は、中郷の正法寺と下郷の観音寺を宿としていたが、戦后は中郷の宝薬寺と観音寺を交互に宿とし、氏子中の長男を主役とし、万灯、ホロ貝、先払い、先達(神官)、氏子総代、棒司、花笠、頭笛、笛吹衆、中立、獅子の順に行列をつくって神社にくりこむ。
曲目は初庭と二庭の二曲
七月二十五日(旧暦六月二十五日)の祭礼には、豊作、疫病除け、雨乞いなどの祈願のためこの獅子舞が奉納される。(嵐山町教育委員会掲示より)
宝薬寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿