明光寺。町内最古の阿弥陀三尊種子板石塔婆
明光寺の概要
天台宗寺院の明光寺は、竪横山醫王院と号します。明光寺の創建年代等は不詳ながら、江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』では、明海が開山したとのみ伝えています。一方『埼玉の神社』では、将軍沢日吉神社項で「明光寺は、寺伝によれば、延喜十年(九一〇)三月五日、坂上田村麻呂が東征の際、当地に寄った時に一堂を建立したことに始まり、元弘・延元のころ(一三三一-四〇)には兵火にかかって塔堂を焼失した」としています。明治維新後の新ブル分離令まで将軍沢地内の諸社の別当を勤めていました。
山号 | 竪横山 |
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院号 | 醫王院 |
寺号 | 明光寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 比企郡嵐山町将軍沢308 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
明光寺の縁起
明光寺の創建年代等は不詳ながら、江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』では、明海が開山したとのみ伝えています。一方『埼玉の神社』では、将軍沢日吉神社項で「明光寺は、寺伝によれば、延喜十年(九一〇)三月五日、坂上田村麻呂が東征の際、当地に寄った時に一堂を建立したことに始まり、元弘・延元のころ(一三三一-四〇)には兵火にかかって塔堂を焼失した」としています。明治維新後の新ブル分離令まで将軍沢地内の諸社の別当を勤めていました。
新編武蔵風土記稿による明光寺の縁起
(将軍澤村)
明光寺
天台宗、下青鳥村浄光寺末、竪横山醫庵院と號す、本尊薬師を安ず、開山明海寂年を傳へず、
愛宕社(新編武蔵風土記稿より)
明光寺所蔵の文化財
- 阿弥陀三尊種子板石塔婆(嵐山町指定考古資料)
阿弥陀三尊種子板石塔婆
この板石塔婆は、主尊に阿弥陀如来種子(キリーク)を置き、右下に観音菩薩種子(サ)、左下に勢至菩薩種子(サク)の両脇侍を配する、阿弥陀三尊式の種子塔婆である。鎌倉期の所産で、下方に文応元年(一二六〇)の紀年銘を有する、町内で最古の塔婆である。
造立の趣旨、背景は明らかでないが、当地は一三世紀半ば頃から世良田氏の領地となっていた。世良田氏は、上野国新田四分家の一つで、寛元二年(一二四四)、長楽寺を創建した義孝が新田の遺領であった当地を継ぎ、その後、弥四郎頼氏・教氏(沙弥静心)・家時(二子塚入道)・満義(宗満)と領した。長楽寺には教氏と満義が寺に宛てた寄進状が現在も残されている。
一二六〇年という比較的早い年代に塔婆がこの地に出現するのも、このような環境が背景となっているのかもしれない。(嵐山町教育委員会掲示より)
明光寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿