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一山神社。さいたま市中央区本町東の神社、与野七福神の恵比須神

一山神社の概要

一山神社は、さいたま市中央区本町東にある神社です。一山神社は、与野の御嶽講(一心講)を建て直した一山を慕った講員が、八幡社の境内に御嶽大神を勧請、一山神社と称して嘉永年間(1848-53)に創建したといいます。与野七福神の恵比須神です。

一山神社
一山神社の概要
社号 一山神社
祭神 少彦名命、誉田別命
相殿 -
境内社 祖霊社
住所 さいたま市中央区本町東4-10-14
祭日 -
備考 与野七福神の恵比須神



一山神社の由緒

一山神社は、与野の御嶽講(一心講)を建て直した一山を慕った講員が、八幡社の境内に御嶽大神を勧請、一山神社と称して嘉永年間(1848-53)に創建したといいます。

「埼玉の神社」による一山神社の由緒

京浜東北線の与野駅の西口に降り、駅前の通りを西にまっすぐ二キロメートル近く進むと与野公園に突き当たる。その手前の、本町郵便局の角を右折し、本町通り(旧鎌倉街道)を北に五〇〇メートルほど進んだ所に、「柚子祭り」で知られる当社の参道の入口がある。この辺りは、都市化が激しく、境内の周囲には家屋が建て込んでいるが、樹木に包まれた社殿の周辺は、閑静な雰囲気を保っている。当社は、御嶽講の四大講祖の一人とされる一山行者を祀った社であり、その歴史を語るには、まず御嶽講の動向から話を始めなければなるまい。
御嶽講は、木曾国(長野県)御嶽山の山頂に鋲座する御嶽神社を信仰する人々によって作られた講社で、天明五年(一七八五)に尾張国出身の覚明行者が黒沢ロの登山路を、次いで寛政四年(一七九二)に武蔵国大滝村出身の普寛行者が王滝口の登山路を開いたことによって普及が進んだ。その後、信濃国出身の一心行者が普寛行者の法統を受け継いで御嶽講の普及に努め、その結果、関東の各地に御嶽講の講社ができ、普寛の元には多くの門弟が集まった。与野町の有力者・井原平八もその一人で、御嶽講の先達として活躍した。
一方、幕府はこうした民間信仰集団の拡大を宗教統制上良しとせず文政四年(一八二一)になって、寺社奉行より一心は遠島、平八たち先達には所払いの沙汰が下った。その後、平八は与野町惣百姓六一名により町役人復帰嘆願が寺社奉行に差し出されたほか、御嶽講に深い関係のあった尾張藩主の斡旋などもあり赦免となったものの、講は壊滅状態に瀕していた。
この状況下に登場したのが一山である。一山は俗名を治兵衛といい、相模国津久井郡の出身といわれ、壮年になって藤原家(平八)の養子となった。信仰心厚く、やがて井原家の許しを得て、同家に近い円乗院で剃髪し、治兵衛は、数年間の修行の後、諸国で行者修行を積み、木曾御嶽山において木食行を重ね、普寛・一心の行法を感得し、深く御獄大神を尊信するに至った。かくして御嶽講の行者となった一山は、一心講の復興に努め、自らは一山講を興し、晩年、嶺村(現東京都大田区)(註:北嶺町御嶽神社か?)と当地に霊場を設け、ついに数万の信者を擁するまでにして、嘉永四年(一八五一)十二月二十日に没した。
一山の没後、講祖「一山霊神」の高徳を敬慕する多数の講員は、与野町内にあった八幡社の境内に御嶽大神の一座を勧請して神社を建立し、行者名及び講社名を取って一山神社と称した。これが当社の創建であり、嘉永末年(一八五四)までには、社殿が建立されていたという。その後も講員によって境内の整備が逐次進められ、慶応二年(一八六六) には手水石が奉納され、明治十九年には本殿・拝殿・神供所・社務所・祭器庫・鳥居・手水舎・敷石などが新築された。(「埼玉の神社」より)

新編武蔵風土記稿による当地にあった八幡社について

(與野町)八幡社
石の小社なり、村民持ち(新編武蔵風土記稿)


一山神社所蔵の文化財

  • 一山神社冬至祭(さいたま市指定民俗文化財)

一山神社旧本殿

一山神社は嘉永年間(一八四八〜五三)に、木曽御嶽講中が創立。福徳の神として恵比須様と八幡様を祭る。「冬至祭」は、別名「ユズ祭り」とも呼ばれる。冬至の日はカボチャを食べ、ユズ湯に入ると風邪をひかないといい、ユズを縁の下に投げ込む風習は無病息災、火災予防のまじないでもある。
冬至祭は、拝殿での祭典後、境内でユズ・神饌物を供え、祝詞をあげ神火をつけ火焚神事が行なわれる。行者は人形の入った木箱を担ぎ火中を渡り、参加者も加わって一年の災厄を清める。
平成一二年(二〇〇〇)市指定文化財となる。(さいたま市教育委員会掲示より)

一山神社の周辺図


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参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)