与野浅間神社。天台系修験の東覚院が勧請
与野浅間神社の概要
与野浅間神社は、さいたま市中央区八王子にある神社で、八王子神社と同境内にあります。与野浅間神社は、江戸時代後期に広まった富士浅間信仰から、富士浅間信仰とかかわりの深い天台系修験の東覚院が、当社を勧請したのではないかといいます。

社号 | 浅間神社 |
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祭神 | 木花咲耶姫命、大山咋命 |
相殿 | - |
境内社 | 富士小御嶽、山王、猿田彦、稲荷 |
住所 | さいたま市中央区八王子1-7-11 |
祭日 | 7月1日 |
備考 | - |
与野浅間神社の由緒
与野浅間神社は、江戸時代後期に広まった富士浅間信仰から、富士浅間信仰とかかわりの深い天台系修験の東覚院が、当社を勧請したのではないかといいます。
「埼玉の神社」による与野浅間神社の由緒
当社は、鎮守である八王子神社の西北に隣接した、高さ約五メートル、径約一二メートルの堂々とした塚上に鎮座している。
創建については明らかでないが、江戸後期に庶民の間に広まった富士浅間信仰の影響が考えられる。富士浅間信仰は、戦国末期に長谷川角行が信者を富士講としてまとめ、次いで江戸中期に食行身禄が富士講身禄派を興した。更に、江戸末期に身禄派の小谷三志が不二孝を興し、勤労の重視、孝道の実践などを教義の中心に据えたことで庶民の間に広まり、一後に隆盛を極める基礎となった。その後、江戸を中心として急速に広まった富士講の影響は当地周辺にも及び篤信者を生んでいる。寛政十二年(一八〇〇)から安政四年(一八五七)の間に五八回の富士登山を果たした沢田屋平左衛門は、その代表的な人物であろう。このような富士浅間信仰の高まりを機に、八王子神社の別当であり、富士浅間信仰とかかわりの深い天台系修験の東覚院が、当社を勧請したのであろう。
東覚院は、本山派修験中尾村玉林院配下で、寛永年間(一六二四-四四)に当地へ土着した。神仏分離により東覚院は十代目の法印が復飾して鯰江義寛を名乗り神職となった。鯰江家ほ義寛一代で祀職を離れ、神山家が後を継いだ。神山家は二代にわたって祀職を務め、昭和三十七年ごろに現在の吉田家に引き継がれた。(「埼玉の神社」より)
新編武蔵風土記稿による与野浅間神社の由緒
(八王子村)浅間社
東覺院の持(新編武蔵風土記稿より)
与野浅間神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)