鈴谷天神社。さいたま市中央区鈴谷の神社

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鈴谷天神社。さいたま市中央区鈴谷の神社

鈴谷天神社の概要

鈴谷天神社は、さいたま市中央区鈴谷にある神社です。鈴谷天神社の創建年代等は不詳ですが、元禄11年(1698)の「武州足立郡鈴谷村田畑水帳」に記載があるといい、少なくとも江戸時代中期には創建されていたことがわかります。

鈴谷天神社
鈴谷天神社の概要
社号 天神社
祭神 菅原道真公
相殿 -
境内社 稲荷社
住所 さいたま市中央区鈴谷8-10-1
祭日 -
備考 -



鈴谷天神社の由緒

鈴谷天神社の創建年代等は不詳ですが、元禄11年(1698)の「武州足立郡鈴谷村田畑水帳」に記載があるといい、少なくとも江戸時代中期には創建されていたことがわかります。

新編武蔵風土記稿による鈴谷天神社の由緒

(鈴ヶ谷村)天神社
村の鎮守なり、大圓寺の持(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による鈴谷天神社の由緒

応永三年(一三九六)十月十八日に書写された栃木県日光市輪王寺蔵の大般若経巻一七八の奥書に「足立郡与野郷鈴谷」と見え、中世には当地が与野郷に含まれていたことがわかる。地内には妙行寺の正元二年(一二六〇)のものをはじめとして、鎌倉期から室町期に至る多数の板碑が散在している。また、妙行寺は禅宗寺院を日蓬宗の日英が応永年間(一三九四-一四二八)に改宗させ中興開山となったといわれる古利で、このことからも当地は中世から開けたと考えられる。
鈴谷の鎮守である当社は、地内の北外れに鎮座している。その創建は村が開かれた近世以前にさかのぼると推測されるが、史料を欠き、明らかにできない。元禄十一年(一六九八)の「武州足立郡鈴谷村田畑水帳」(大室俊一家文書)には「一、天神社弐拾弐間拾壱間半 惣村中持」とある。また、享和三年(一八〇三)の棟札によると、享和二年に与野町の大火の際、石川治郎八という人が当社に駆けつけて神体を運び出したが、社殿は灰燼に帰した。そこで石川万吉・石川音次郎をはじめ総筆子四〇余名が社殿再建を誓い、遊馬弥五右衛門・石川治郎八の両名が世話人になって翌年に竣工し、併せて神体に彩色を施して厨子・帳を新調し、妙行寺隠居日昌が神体の内に法華経一部を納めた。その総費用は金二〇両余で、内一七両は山木を売り払った代金を充て、残りは勧化金で賄ったという。(「埼玉の神社」より)


鈴谷天神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)