箕輪久伊豆神社。野与党箕匂氏が祖神として奉斎
箕輪久伊豆神社の概要
箕輪久伊豆神社は、さいたま市岩槻区箕輪にある神社です。箕輪久伊豆神社の創建年代は不詳ながら、当地は武蔵七党野与党の箕匂氏の在所で、鎌倉時代から開発されており、野与党の共通の祖神として祀られていたのではないかといいます。江戸期には村社に列格していました。
社号 | 久伊豆神社 |
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祭神 | 大己貴命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | さいたま市岩槻区箕輪63 |
祭日 | - |
備考 | - |
箕輪久伊豆神社の由緒
箕輪久伊豆神社の創建年代は不詳ながら、当地は武蔵七党野与党の箕匂氏の在所で、鎌倉時代から開発されており、野与党の共通の祖神として祀られていたのではないかといいます。江戸期には村社に列格していました。
新編武蔵風土記稿による箕輪久伊豆神社の由緒
(箕輪村)
久伊豆社
村の鎮守なり、知證院持。
知證院
新義真言宗、岩槻宿彌勒寺末、明王山と號す、本尊彌陀を安ず。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による箕輪久伊豆神社の由緒
久伊豆神社<岩槻市箕輪六三(箕輪字東)>
当地は武蔵七党野与党の箕匂氏の在所で、その一帯は箕輪郷と称していた。野与党大蔵経長の次男経光の本領と伝え、経光の曾孫為経が箕勾を名乗り更にその子孫箕匂政高は鎌倉幕府の御家人として活躍した。このようなことから当地の開発も鎌倉時代には行われていたものと思われ、当社はこの箕勾氏によって野与党の共通の祖神として祀られたと推測される。
『風土記稿』箕輪村の項に「久伊豆社 村の鎮守なり、知証院持なり」と載るのが、最も古い記録である。また、本殿には神璽のほかに江戸時代のものと思われる古い金幣が安置されている。
別当の知証院は、神仏分離後の明治七年に廃寺となり、その跡地は箕輪公民館になっている。
当社の境内は、箕輪のほぼ中央に位置しており、周囲は民家と畑が混在する田園地帯である。境内の南西は崖になっており、東北自動車道の方から遠望すれば、台地上にあることがよく分かる。樹木は少ないが、周囲に山林があるのと、清掃が定期的になされているためごみもなく、市によって滑り台などの遊具が設置されていることもあり、公園のように明るい雰囲気の神社である。(「埼玉の神社」より)
箕輪久伊豆神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)