表慈恩寺諏訪神社。さいたま市岩槻区諏訪の神社
表慈恩寺諏訪神社の概要
表慈恩寺諏訪神社は、さいたま市岩槻区諏訪にある神社です。表慈恩寺諏訪神社の創建年代等不詳ながら、慈恩寺村が表慈恩寺・慈恩寺・裏慈恩寺の三村に分村した際(天和2年1682年)表慈恩寺村の鎮守として祀られ、明治6年には村社に列格したといいます。
社号 | 諏訪神社 |
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祭神 | 建御名方命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | さいたま市岩槻区諏訪4-3-15 |
祭日 | - |
備考 | - |
表慈恩寺諏訪神社の由緒
表慈恩寺諏訪神社の創建年代等不詳ながら、慈恩寺村が表慈恩寺・慈恩寺・裏慈恩寺の三村に分村した際(天和2年1682年)表慈恩寺村の鎮守として祀られ、明治6年には村社に列格したといいます。
新編武蔵風土記稿による表慈恩寺諏訪神社の由緒
(表慈恩寺村)
諏訪社
慈恩寺の持。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による表慈恩寺諏訪神社の由緒
諏訪神社<岩槻市諏訪四-三-一五(表慈恩寺字諏訪山)>
平安時代の創立と伝える天台宗の古刹慈恩寺は、江戸時代には寺領として百石の朱印地を有していた。江戸時代当初の慈恩寺村は、この慈恩寺領百石と岩槻藩領約一千石からなる大きな村であったが、その後、表慈恩寺・慈恩寺・裏慈恩寺の三か村に分村した。当社の鎮座する表慈恩寺は、この三か村のうち最も南に位置し、慈恩寺村からの分村の時期は、天和二年(一六八二)であるという。
この表慈恩寺の人々の間で、村の氏神として祀られてきた社が当社である。『風土記稿』では、慈恩寺村に鎮座する「十二天社」が、「慈恩寺三村の鎮守なり」とされており、当社については表慈恩寺村の項に「諏訪社 慈恩寺の持」と記されているだけであるが、実質上、表慈恩寺村では当社を鎮守として祀っていたことは、明治六年に当社が村社になっていることからも推測される。
なお、神仏分離の後も、慈恩寺とのつながりはしばらくの間続いていたらしく、明治十年に社殿を再建した際には、慈恩寺からの資金援助があったと伝えている。
その後も、社地の拡張を図るなど、漸次境内の整備に務めたが、昭和四十七年九月、不慮の火災により、社殿は灰燼に帰した。しかし、氏子一同力を合わせて再建に努めると共に、篤志者からの寄附も得られ、焼失後二年余を経た同四十九年十一月、信州一宮諏訪大社から改めて分霊を頂いて、落成した新社殿への正遷宮を盛大に行った。(「埼玉の神社」より)
表慈恩寺諏訪神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)
- 「さいたま市史料叢書6」