武國神社。鎮守氷川社に諸社合祀、武蔵国から武國神社と改称
武國神社の概要
武國神社は、さいたま市北区奈良町にある神社です。武國神社の創建年代等は不詳ながら、奈良瀬戸村の開発に伴い村内鎮守として氷川社を祀ったといいます。明治6年村社に列格、明治40年吉野原の金山社・天神八幡社・鹿島社(現吉野神社)を合祀して武国神社と改めたといいます。

社号 | 武國神社 |
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祭神 | 素戔嗚尊 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷社、疱瘡社 |
住所 | さいたま市北区奈良町158-1 |
祭日 | - |
備考 | 旧村社 |
武國神社の由緒
武國神社の創建年代等は不詳ながら、奈良瀬戸村の開発に伴い村内鎮守として氷川社を祀ったといいます。明治6年村社に列格、明治40年吉野原の金山社・天神八幡社・鹿島社(現吉野神社)を合祀して武国神社と改めたといいます。
新編武蔵風土記稿による武國神社の由緒
(奈良瀬戸村)
氷川社
村内の鎮守なり、寶性寺持(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による武國神社の由緒
武国神社<大宮市奈良町一五八-一(奈良瀬戸字宮前)>
奈良瀬戸は、江戸時代には大谷領、更に古くは吉野領に属したと伝えられる。その地内には、大宮市内における縄文時代の代表的な遺跡の一つである奈良瀬戸遺跡があり、昭和三十六年以降三度にわたる発掘で、土器や石器など膨大な遺物が出土している。
通称を「氷川様」というように、当社は元来は氷川神社と称し、奈良瀬戸村の鎮守として祀られてきた社である。『風土記稿』奈良瀬戸村の項に「氷川社 村内の鎮守なり、宝性寺持」と記されているのがこの氷川神社で、由緒については詳らかではないが、村の開発に伴い、武蔵国一宮の氷川神社を勧請して祀ったものと推測される。一方、別当の法姓寺は普門山満蔵院と号し、阿弥陀如来を本尊をする真言宗の寺院で、壮麗な堂宇や風致ある庭園があったという。しかし、神仏分離の後、明治五年の「維持困難な寺院仏堂は廃すべし」との太政官布告によって廃寺となった。現在の観音堂は、その跡地に建立されたものである。また当社境内の稲荷社は宝性寺で祀っていた社である。
氷川神社は明治六年に村社になり、政府の合祀政策によって明治四十年に大字吉野原(現吉野町)の金山社・天神八幡社・鹿島社を合祀しこれを機に武国神社と改称した。社名については、特に伝えはないが、前身の氷川神社が武蔵国一宮の分霊であることに由来すると思われる。なお、金山社と鹿島社は太平洋戦争後に吉野原に戻された。(「埼玉の神社」より)
武國神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)