西遊馬氷川神社。さいたま市西区西遊馬の神社

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西遊馬氷川神社。さいたま市西区西遊馬の神社

西遊馬氷川神社の概要

西遊馬氷川神社は、さいたま市西区西遊馬にある神社です。西遊馬氷川神社の創建年代等は不詳ながら、土地周辺は遊馬郷として戦国時代には成立していたといい、戦国時代以前には創建していたのではないかといいます。以後遊馬村の鎮守社として祀られ、明治6年には村社に列格、明治40・41年には周辺の無格社七社を合祀、大正9年に字浄蓮坊の無格社稲荷社を合祀しています。

西遊馬氷川神社
西遊馬氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 須佐之男命
相殿 -
境内社 稲荷、天満・八雲・御嶽・白山・榛名・辨天
住所 さいたま市西区西遊馬235-1
祭日 -
備考 -



西遊馬氷川神社の由緒

西遊馬氷川神社の創建年代等は不詳ながら、土地周辺は遊馬郷として戦国時代には成立していたといい、戦国時代以前には創建していたのではないかといいます。以後遊馬村の鎮守社として祀られ、明治6年には村社に列格、明治40・41年には周辺の無格社七社を合祀、大正9年に字浄蓮坊の無格社稲荷社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による西遊馬氷川神社の由緒

(遊馬村)
氷川社
村の鎮守なり、華厳院の持。
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稲荷社
持同じ。
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八幡社
村民の持。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による西遊馬氷川神社の由緒

西遊馬・氷川神社
かつての遊馬村の鎮守で、”宿の氷川様”と呼び親しまれています。当地は大宮と川越のほぼ中間に位置し、「宿」の名が示すように、遊馬では神社前の道の両側に集落が営まれていました。鳥居前の道は、江戸時代から大宮と川越を結ぶ重要な道で、南は馬宮保育園前を左折し県道に出て右折、水判土観音を経て大宮や与野へと結ばれ、北は馬宮東小学校前を通り、荒川堤防上を北進、丸堀の北側を通り千手堂の渡しで荒川を越えて川越へ至りました。丸堀の北側から先の道はゴルフ場になっておりたどることが出来なくなっています。
7月中旬に、天王様の祭礼が催され、神社入口に大きな幟を立て、子供神輿や山車が出て大変賑わい、地区内を巡行します。(さいたま市教育委員会・生涯学習部文化財保護課掲示より)

「埼玉の神社」による西遊馬氷川神社の由緒

氷川神社<大宮市西遊馬二三五-一(西遊馬字宿)>
当地は荒川左岸の低湿地にあり、古くは大風雨の際には度々堤が決壊し田畑が冠水した。
戦国期の成立とされる「市場之祭文写」に「足立郡遊馬郷指扇村市祭成之」とあり、指扇村や当地を含む付近一帯は中世末には遊馬郷と呼ばれていたことがわかり、既に当地も開発されていたと思われる。
当社は、地内の南部にあたる字宿に鎮座し、すぐ近くには天文十二年(一五四三)の草創と伝える曹洞宗遊馬山高城寺がある。創建については明らかではないが、口碑によると、当社は初め堤外にあったが、荒川の大囲堤を築く際に今の地に移ったという。『風土記稿』遊馬村の項には「氷川社 村の鎮守なり、華蔵院の持」とある。これに見える別当の華蔵院は、当社の南南西二五〇メートルほどの所にあった天台宗の寺院で、その開基は明らかでない。明治四年に廃寺となった。
『明細帳』によると、当社は明治六年に村社となり、同四十年から翌四十一年にかけて、地内の字上サの八幡社をはじめとする無格社七社を合祀し、更に大正九年に字浄蓮坊の無格社稲荷社を合祀したとあるが、そのうちの数社は実際の合祀を免れている。本殿に奉安される神像(全高四七センチメートル)は正面に八幡宮の神紋である巴紋が描かれていることから、上サの八幡社の八幡大明神像と推測され、その台座底部には「安永元天辰(一七七一)ノ十二月吉日」の年紀が見える。(「埼玉の神社」より)


西遊馬氷川神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)