高城寺。遊馬学校開校地、高城寺の庚申塔
高城寺の概要
曹洞宗寺院の高城寺は、遊馬山と号します。高城寺は、僧正春が天文12年(1543)に創建、江戸時代後期には寺子屋が開かれた他、明治6年には遊馬学校が当寺内に開校するなど、地域に深く根ざした寺院だといいます。
山号 | 遊馬山 |
---|---|
院号 | - |
寺号 | 高城寺 |
住所 | さいたま市西区西遊馬229 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
高城寺の縁起
高城寺は、僧正春が天文12年(1543)に創建、江戸時代後期には寺子屋が開かれた他、明治6年には遊馬学校が当寺内に開校するなど、地域に深く根ざした寺院だといいます。
新編武蔵風土記稿による高城寺の縁起
(遊馬村)高城寺
禅宗曹洞派、大成村普門院末、遊馬山と號す、本尊薬師を安ず、當寺は天文十二年僧正春なるもの基を興し、元亀三年安清記室其功を卒ふと云、山て正春を開山とす、記室一に文公と號せり。
鐘楼。寶暦年中に鑄し鐘をかく。
観音堂。此堂元堤外にありしを、元和六年ここに引移せりと、承和元酉年二月とえれる古碑一基立り。
秋葉社、白山社。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による高城寺の縁起
高城寺は、西遊馬の「宿」と呼ばれる所にあります。天文十二年(一五四三)の開創と伝える古い寺で、御本尊は室町時代の様式をもつ薬師如来坐像です。境内にある観音堂はかつては堤外にあったものと伝えられ、荒川の改修にともない移転したものです。西遊馬の旧家のほとんどが当寺に墓地をもっており、地域に密着した寺院です。江戸時代の後期には寺子屋が開かれており、氷川神社(山門を南へ約五十メートル)境内には高城寺十代の泰範賢州和尚が”先生”をしていたことを伝える天満宮が祀られています。また、明治六年(一八七三)には遊馬学校が当寺にて開校、現在の馬宮東小学校へと発展していきます。このため、寺紋と馬宮東小学校の校章は同じ”五七の桐”になっています。
本堂は昭和五十三年に新築されましたが山門や鐘楼は歴史のある寺院にふさわしい重厚な造りで、大晦日には除夜の鐘を撞く大勢の参拝者で賑わいます。
馬宮地区は大宮の中心街と川越の城下のほぼ中間に位置しており、旧道が地区内を通り、人や物資の流通が盛んに行われました。(高城寺・さいたま市教育委員会生涯学習部文化財保護課掲示より)
高城寺所蔵の文化財
- 高城寺の庚申塔(大宮市指定史跡)
高城寺の庚申塔
江戸時代前期の寛文三年(一六六三)三月に造立しています。基礎の上に角柱の塔身、さらに笠を載せています。総高は一七〇センチメートルです。
塔身上部中央の浮き彫りは、主尊の青面金剛です。火焔光背をもち、三顔で、右手に剣、左手に索をもち、一匹の邪鬼を踏みつけています。両脇に童子、下部に二猿、その下に二鶏を浮き彫りしています。
銘文に「于時寛文三癸卯年三月吉日 植田谷領 遊馬村□衆拾四人」とあり、遊馬村の村民十四人が結衆して建てたことがわかります。
庚申信仰の基本は、庚申の夜、人間が熟睡すると、体のなかにいる三尸という虫が、体から抜け出し、天帝にその人間がどのような善悪をおこなったかを報告しに行き、天帝はその報告により人間の寿命を決定するという信仰です。
高城寺の庚申塔は、主尊・邪鬼・童子・鶏・猿が揃い、江戸時代前期の庚申塔及び庚申信仰を知る上で貴重な資料となっています。(大宮市教育委員会掲示より)
高城寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」