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指扇氷川神社。さいたま市西区指扇の神社

指扇氷川神社の概要

指扇氷川神社は、さいたま市西区指扇にある神社です。指扇氷川神社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊東征の際に一宮氷川神社の分霊を当村の守護神として祀り創建したと伝えられ、指扇領七か村の総鎮守として崇められたといいます。明治維新後村社に列格、明治40年に指扇領別所宮脇の別所八幡神社を合祀、明治43年までに村内の八社を合祀したといいます。

指扇氷川神社
指扇氷川神社の概要
社号 氷川社
祭神 須佐之男命
相殿 -
境内社 稲荷、第六天、牛頭天王、道祖神
住所 さいたま市西区指扇2810
祭日 -
備考 -



指扇氷川神社の由緒

指扇氷川神社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊東征の際に一宮氷川神社の分霊を当村の守護神として祀り創建したと伝えられ、指扇領七か村の総鎮守として崇められたといいます。明治維新後村社に列格、明治40年に指扇領別所宮脇の別所八幡神社を合祀、明治43年までに村内の八社を合祀したといいます。

新編武蔵風土記稿による指扇氷川神社の由緒

(差扇村)
氷川社
村の鎮守なり。
末社。第六天社、稲荷天神合社。
別当神宮寺
天台宗、別所村福正寺末、霊験山と號す、本尊十一面観音を安ず。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による指扇氷川神社の由緒

氷川神社<大宮市指扇二八一〇(指扇字鎮守)>
指扇村は、戦国期の成立とされる「市場之祭文写」に「武州足立郡遊馬郷指扇村市祭成之」とあり、このころ既に一村をなしていたことがわかる。
当社は、荒川と鴨川に挟まれた大宮台地の突端部に低地を見渡すように鎮座しており、昭和十年代までは、その台地の裾から湧き出る清水が、干ばつでも涸れないほど豊かな水を湛えた池を形作っていた。このようなことから、創建は、見沼に坐す水神を祀ったことに始まる一宮氷川神社に倣い、水源を擁する台地上に水の神として祀られたのであろう。
社蔵の「明細帳由緒訂正願書式」は、別当である神宮寺の火災により、当社の由緒が失われたため、明治二十年代に時の総代大久保源右衛門が旧家の文書や本殿内の古証文を調査し、明治四十五年四月二十五日付で書き上げたものである。「明細帳」によると、ここで示された由緒は、大正二年二月二十八日付で承認されている。
この「明細帳由緒訂正願書式」によると、景行天皇の御代、東国平定の途次に当地に立ち寄った日本武尊は、一宮氷川神社の分霊を当村の守護神として祀った。創建以来、社殿の東の大夫山に住んでいた社司がいつのころからか絶えたため、延暦十五年(七九六)に社殿の西側に神宮司をつくり、これを別当とした。神宮司は弘仁十四年(八二三)に火災によって消失し、仁和元年(八八五)に再建し神宮寺と改称した。当社はいつのころからか指扇領七か村の総鎮守として崇められたという。
一方、江戸期に神宮寺が村役人に提出するため書き上げたものと思われる境内の除地についての「献上指出社地山林境内山林畠之事」によれば、当社の創建は一宮氷川神社と同時期で、更に神宮寺の開基も当社創建と同時期であるという。また、神宮司境内に延文六年(一三六一)の銘が刻まれた石塔があったとの記述があり、これが正しければ、当社の創建も室町期までさかのぼることが推定できよう。
神宮寺は弘化年中(一八四四-四八)に火災に遭い、そのまま廃寺となった。跡地は社殿の北西の道路を隔てた所である。
明治期、当社は村社に列した。明治二十二年に当社及び指扇領別所・指扇領辻・宝来・峯岸・中釘・高木・清河寺・内野本郷・西新井の一〇か村が合併し、最も村域の広い指扇村を村名に冠した。その後、同四十年に指扇領別所宮脇の村社八幡社をはじめ、同四十三年までに村内の八社を合祀した。
社蔵の文書に神祇管領吉田兼雄より受けた宗源祝詞がある。これは元文二年(一七三七)に正一位に叙せられた際に受けたものである。(「埼玉の神社」より)


指扇氷川神社の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)