櫛引氷川神社。さいたま市大宮区櫛引町の神社
櫛引氷川神社の概要
櫛引氷川神社は、さいたま市大宮区櫛引町にある神社です。櫛引氷川神社は、武蔵一之宮氷川神社を勧請して應永5年(1398)に創建、明治46年日進神社に合祀されたものの、大正3年より当地に遥拝所を設置して祀り続け、昭和51年復祀、櫛引氷川神社と号したといいます。
社号 | 櫛引氷川神社 |
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祭神 | 須佐之男命、寄稲田姫命、大己貴命他末社五柱 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | さいたま市大宮区櫛引町1-653 |
祭日 | - |
備考 | - |
櫛引氷川神社の由緒
櫛引氷川神社は、武蔵一之宮氷川神社を勧請して應永5年(1398)に創建、明治46年日進神社に合祀されたものの、大正3年より当地に遥拝所を設置して祀り続け、昭和51年復祀、櫛引氷川神社と号したといいます。
新編武蔵風土記稿による櫛引氷川神社の由緒
(櫛引村)
氷川社
大宮の氷川を勧請せし由なれど、その年暦等はつまびらかならず。
末社。八幡社、疱瘡神社、稲荷社、天王社、荒脛社、山神社。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による櫛引氷川神社の由緒
櫛引氷川神社<大宮市櫛引町一-六五三(櫛引字宮下)>
当地は、切敷川を東に望む大宮台地に位置する。地名は伝説によると、昔、素盞嗚尊と奇稲田姫尊が出雲国からやって来たとき、当地で休み、素盞嗚尊が奇稲田姫尊の髪を櫛で整えたことに由来するという。
『風土記稿』には「氷川社 大宮の氷川を勧請せし由なれどその年暦等はつまびらかならず、末社 八幡社 疱瘡神社 稲荷社 天王社 荒脛社 山神社 三島社」とある。また、明治三年の『大宮組合神社細詳取調帳』には「南向両社造 村鎮守 神体幣帛 社ノ艮ニ小池アリ」とある。この中にある小池は現在ないが、かつて当社の湧水の祭祀にかかわりがあったと考えられる。
明治四十年六月五日、「日進神社」に合祀されるが、大正三年三月、現在地に遥拝所を建立して祭祀を続けた。その後、氏子の要望により社殿の再建を決議し、拝殿・参集所を造営した。昭和五十一年十二月十七日、新たに設立の手続きを経て日進神社より神霊を奉遷し、社号を櫛引氷川神社と定めた。
幕末から明治初期にかけて当社の神職を務めた渋谷勝平は、幼少のころから書に親しみ和歌を学び、平田篤胤の門人藤原直彦に師事し、平正彦と号した。また、中林勝平とも称し、平春堂という私塾を開設した。なお、当社境内には、平正彦の筆子碑が残る。(「埼玉の神社」より)
境内掲示による櫛引氷川神社の由緒
この神社は、第百代後小松天皇の御代、應永五年(西紀一三九八年)の御創建と伝えられる。
武蔵一之宮氷川神社を、武蔵野の沃野に住民の平安と五穀豊穣を祈り御分祀し、村の鎮守とした。
往時、その社有地は除地、年貢地を含め三万坪を有し荘厳な神社の風格を成していた。村民はもとより、近隣の参詣者も多数にのぼり、御神徳高き神社であった。
明治三十九年八月、政府の方針で一村一社の趣旨による神社合祀令が発令され、村民が慎重に審議を重ねた末、時流に抗すべくもなく明治四十年六月五日「日進神社」に合祀した。跡地は政令に従って處分されたが、大正三年三月三日、現在地に遥拝所を建立し殿宇を荒廃から守って来た。
その後、住民の要望等により神社の再建を決し、拝殿、参集所を造営した。神社設立の手続きを経て昭和五十一年十二月十七日、日進神社より合祀神霊を奉遷、社号も櫛引氷川神社と定め、再興された。
なお、櫛引村の出身で幕末の漢学者であった渋谷勝平(平正彦)は、旧拝殿の天井に「龍」を、参集所には「日天月天」の絵を奉納しており、これらは今も伝えられている。
昭和五十二年五月二十三日、宗教法人として認可され、四級社に列せられる。(境内掲示より)
櫛引氷川神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)